タイムトンネル〜Back to…
「柳ケ浦に機関区があった」

 JR日豊線の柳ケ浦駅には日本国有鉄道時代の1967年まで、多数の蒸気機関車が在籍する「機関区」があった。1897(明治30)年9月25日に豊州鉄道の「長洲駅」として開業し、翌年には「宇佐駅」と改称。国有化後の1909(明治42)年3月に「柳ケ浦駅」と再改称し、現在に至っている。柳ケ浦機関区は1912(明治45)年に設置され、煉瓦作りの2線矩形庫や給炭塔、給水塔、事務棟などがあった。門司港〜大分の中継地点で、給炭と給水、機関車の付け替え、乗務員の交代などが行われた。別府、大分へ向かう列車は難所「立石峠」を控え、柳ケ浦から後部補機が連結されて立石駅で走行解放をしていた。

 太平洋戦争前後の在籍機は旅客用の8620形と貨物用の9600形。1948(昭和23)年ごろからD50形が投入され、後にD60形も加わった。そのほか門司機関区のD51、行橋機関区のC50、大分運転所のC57、DF50などが立ち寄ってにぎやかだった。機関士や機関助士、検修技士ら機関区の職員だけで約300人が在籍していた。

 同機関区は通称ヨンニートオ、昭和42年10月のダイヤ改正で小倉〜幸崎が電化され蒸気機関車の運用を廃止。支区に格下げ後廃区となった。数年後、機関庫や転車台などの施設も解体された。今は往時の面影は痕跡すらなく、広々としたヤードだけが残っている。

 当時、小学校6年生だった私は、父親のカメラを借りて蒸気機関車廃止後の機関区に行き写真を撮った。それまで、小学校の行き帰りに毎日見ていた蒸気機関車が火を落として眠っていた。初めてカメラを手にし、鉄道写真のセンスもへったくれもなく、庫を縦位置だけしか撮っておらず、なぜ全景を撮らなかったのか、給水塔や給炭塔など肝心な場所も撮り漏らしたことを今でも悔んでいる。(無断複製、持ち出しは厳禁)


■ 電化後、煉瓦造りの機関庫に留置されたD50形70号機。


■ 電化後、大分運転所のC57形115号機が柳ヶ浦機関区にやってきた。


■ 電化後、大分運転所のC58形105号機もやってきた。


 以下の写真は宇佐市住江在住で、以前柳ケ浦機関区に務めていた機関士の土岐虎士さんの妻渥美さんが所有していた。虎士さんは1958年4月7日に昭和天皇・皇后両陛下が植樹祭で大分入りした際、お召し列車走行の直前に安全確認として走る先導車に機関助手として乗務。柳ケ浦駅に給水停車して地元民の大歓迎を受けた様子が表紙写真になった大分合同新聞社発行の植樹祭記念冊子やお召し列車の本務機を務めた門司港機関区所属のC57形111号機、露払いを担当した柳ケ浦機関区所属のD50形288号機、駅構内などの写真を保管していた。土岐渥美さんの許可を得て公開できることになった。


■ 1958年4月7日に日豊本線でお召し列車を牽引した門司港機関区所属のC57形111号機。


■ C57型111号機が牽引するお召し列車を迎える人々。駅名が分からない。


■ お召し列車の先導車を務めた柳ケ浦機関区所属のD50形288号機。


■ 柳ケ浦駅1番ホームに待機するC57形重連の旅客列車。


■ 柳ケ浦機関区の転車台付近に憩うD50形341号機。


■ D50形353号機牽引の貨物列車。


■ D50形129号機が牽引する上り貨物列車を3番ホームから撮影。


■ 柳ケ浦機関区の煉瓦造りの矩形庫。本屋前に48679号機が佇む。


■ 立石峠を上る貨物列車の後部補機から撮影。


■ 柳ケ浦駅発の上り旅客列車を操車場で待機する機関車の屋根から撮影。


■ 「柳ヶ浦町史」より。写真上が小倉方面。上下に日豊本線が走る。機関庫は本線の左側、中央やや左に位置し、駅本屋が右上にある。


■ 柳ヶ浦駅構内路線略図


■ 昭和6年の柳ヶ浦機関庫。8620型が写っている.。当時は大分機関区柳ヶ浦分庫だった。(大分機関区職員アルバムより)


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