日本! (南北朝)
No.2 南朝(行宮〜後村上天皇 其の二、長慶天皇、後村上天皇)

後村上天皇(其の二)の途中から、後亀山天皇の御世の南北合一までの 南朝行宮。


■ 後村上天皇(其の二)

上写真;金剛寺 摩尼院(現・大阪府河内長野市天野町)(摩尼院の拝観は、春秋の 期日限定)
正平9(1354)年、賀名生で北畠親房が死去(正平9:1354年4月17日没、63歳)する と河内天野山 金剛寺に移り、摩尼院を行宮とした。
その前年(正平8:文和2、1353)正月には足利直冬が南朝に帰順しており、同年6月9 日には 「南朝 第二次 京侵攻」が行われていた。「南朝 第三次 京侵入」は正平10(文和 4、1355)年1月16日 の事なので、第二次と第三次 京侵攻の間に賀名生(現・奈良県五條市西吉野町賀名 生)から京に近い 河内に移動したのだろう。

上写真;河内金剛寺で南朝が政庁とした食堂(右手前の建物)。

上写真4枚;北朝の行宮となった金剛寺観蔵院(現・大阪府河内長野市天野町)。
足利の内紛(「観応の擾乱」)に乗じた「正平の一統」の崩壊の「南朝 第一次 京突 入」で 北朝の光厳・光明の両上皇、崇光天皇と直仁親王を拉致して賀名生に連行。正平9 (1354)年には 金剛寺の観蔵院に移して幽閉した。
なお、翌年の正平10(1355)年には光明上皇が京に戻され、正平12(1357)年には光 厳上皇・崇光上皇 が京に戻っている。この時、既に足利が後光厳天皇を神器無しで践祚していたので (正平9:文和元年: 1352年8月17日)、崇光天皇は上皇になっていた。足利が北朝として天皇を奉載した ので、京から正平9 (1352)年2月21日に拉致連行していた北朝の面々は不要となったのであろう。

上写真2枚;河内観心寺(大阪府河内長野市寺元)
正平13(延文3、1358)年、足利尊氏が死去すると、足利義詮が征夷大将軍に就任し た。
すると正平14(延文4、1359)年12月22日に南朝の河内天野金剛寺行宮を大軍で攻 め、放火・略奪・ 狼藉を散々に行って軍を引いた。その前に後村上天皇は行宮を金剛寺から観心寺に移 し、避難していた。
同寺には、後村上天皇の御陵である「檜尾陵」がある。

上写真;正平15(1360、延文5)年には観心寺から住吉宮の行宮に移った。
後村上天皇が崩御されたのは、住吉宮の行宮で 正平23(1368)年のことであった。
添付写真は住吉宮(現・住吉大社)における 神楽(2015年01月撮影)。
後村上天皇崩御時に、住吉行宮であった住吉大社宮司の館で、長慶天皇が即位した。
ちょうど足利義満が第三代将軍となった年であった。


■ 長慶天皇 [日本第98代天皇、南朝第3代天皇]

1343年〈興国4年/康永2年〉- 1394年8月27日〈応永元年8月1日〉)
在位:1368年〈正平23年/応安元年)〉3月 - 1383年〈弘和3年/永徳3年)冬〉
諱;寛成 、正平24年/応安2年(1369年)4月には河内天野の金剛寺(大阪府河内長野市)に 移った。

上写真;吉野(奈良県吉野郡吉野町吉野山)。金峯山寺蔵王堂。
後村上天皇の崩御直前に、長慶天皇が践祚を受けていた。後村上天皇が崩御されると 長慶天皇は 行宮を吉野に移した。
これは戦闘派の長慶天皇と反りが合わない和平派の楠木正儀が足利義満の北朝へ降っ たため (正平24、1369年)、大事をとったためと思われる。
文中元年(1374)、信濃大鹿村から宗良親王が吉野行宮に入った。

上写真;正平24(1369)年、再び河内金剛寺(現・大阪府河内長野市天野町)へ。

上写真;文中2(1373)年、吉野(奈良県吉野郡吉野町吉野山)へ。
しかし、文中2年/応安6年(1373年)8月に楠木正儀らの先導で細川氏春・赤松光範の 軍から総攻撃を 受けて、四条隆俊ら70人余りが討ち取られたため、再び吉野へ還幸。

上写真;大和 栄山寺(現・奈良県五條市小島町)。
天授5年/康暦元年(1379年)9月までには大和栄山寺に移り、弘和元年/永徳元年 (1381年)10月に 宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とした(『新葉和歌集』)。また同年、『源氏物 語』の注釈書である 『仙源抄』を著している。


■ 後亀山天皇 [日本第99代、南朝第4代天皇]

1350年〈正平5年〉〜1424年5月10日〈応永31年4月12日〉)
在位:1383年〈弘和3年/永徳3年〉冬 - 1392年11月19日〈元中9年/明徳3年閏10月5日〉)
諱;煕成

長慶天皇が朝要分の免除に関して利生護国寺に下した弘和3年(1383年)10月27日付 の綸旨が在位を確認できる最後の史料とされるので、この後程なく弟の東宮(後亀山 天皇)に譲位したと考えられている。
長慶天皇から後亀山天皇への譲位に至った背景には、弘和2年/永徳2年(1382年)閏1 月24日に楠木正儀 が南朝に帰参したことを受けて和平派が台頭し、その勢力によって穏健な後亀山を擁 立する動きがあったとみられる。

上写真;賀名生行宮(現・奈良県五條市西吉野町賀名生)
栄山寺行宮で長慶天皇から践祚をうけると、弘和3(1383)年から元中9(1392)年 の南北合一まで 賀名生が行宮となった。

上写真;天川村には南朝黒木の御所跡が存在するが、行幸の滞在先だったのだろうか。
天川弁財天社(奈良県吉野郡天川村坪内)の横に有り、御所坊と云われる塔頭が立っていた場所。

上写真;橘寺(奈良県高市郡明日香村 )

南北朝史蹟でも、かなり重箱の隅をつっつく様な場所だ。

橘寺。お寺のパンフレットや案内看板のどこにも南北朝史蹟とは、記載が無い。 元中九年(明徳3;1392)、南北朝合一を受け入れた 南朝第四代天皇である 後亀山 天皇は 三種の神器を先頭に、僅かな供奉人々と共に「南山」を出立し、足利義満や北朝の後 小松天皇の待つ 京の内裏へ向かった。

十月二十八日、「南山」を出立し途中で雨により橘寺で御一宿した。つまり 橘寺は 南北合一前の最晩年の 行宮となった寺なのである。

現在の橘寺は度重なる兵火や天災で焼けたために、元治元年(1864)以降に再建され た伽藍が殆どである。

ゆえに南朝の天皇御一行が行宮とされた建物は、残っていない。しかしお寺の場所に は変化が無いようなので、 周囲の地形などから想像を逞しくして後亀山天皇の行幸を想像する。

この南北の合一に向けた後亀山天皇の行幸については1997年初版(角川選書)森茂暁 氏著『闇の歴史、後南朝』 に詳しい。森氏は「南山出立」の「南山」を賀名生や栄山寺ではなく、吉野とされて いる。

1949年初版(中央公論社)村田正志氏著『南北朝史論』では、「行宮を明示する史料 は今日不幸にして傳存しない (中略)元中九年の頃は確実に吉野と考えられるのである。」
とされており、この説に基づいているのだろう。

南北合一に向けて後亀山天皇が何処から出立したか、それに興味を持つのは学者さん か超マニアックな 南朝ヲタくらいだろうけど。。。

ともあれ、この橘寺は南朝の天皇が立ち寄った一夜の行宮であったのだ。


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