日本! (南北朝)
No.20 自天王「御朝拝式」(川上村)

■ 令和5(2023)年02月05日(日)、奈良県吉野郡川上村神之谷、金剛寺

十六花弁菊の御紋の付いた裃を着用した出仕人が、榊の葉を咥葉している。 背後の幔幕にも、菊の御紋だ。「榊の咥葉」こそ朝拝式での真骨頂という。 御朝拝式とは奈良県吉野郡川上村に伝わる、後南朝の祭礼である。

南朝第四代天皇である後亀山天皇の(川上村伝承では)曾孫にあたる一之宮(自天 王) の御霊鎮護の祭礼が朝拝式で、本年で第566回目ということだ。

南北朝の明徳の合一後、足利方が両統迭立(南朝と北朝から交互に立太子する)を遵 守 しないことから後亀山天皇と皇子の小倉宮恒敦親王が吉野へ出奔。後に後亀山天皇は 京 に戻るが、小倉宮系の親王は徹底抗戦で吉野の更に奥深く現・川上村にて籠り、反撃 の 機会を伺っていた。

しかし嘉吉の乱(1441年)で第六代足利将軍義教を暗殺した赤松氏は、その後の禁闕 の変 (1443)年に南朝に奪われた三種の神器の内の神璽を取り戻すことで御家再興の約を 足利 と結んだ。やがて赤松家旧臣が川上村の一之宮(自天王・尊秀王・北山宮)と上北山 村の 二之宮(忠義王?・河野宮)の御座所に歳月をかけて信頼を得ることで潜伏した。そ して 長禄元年(1457)12月02日、両宮は同時に赤松旧臣の襲撃を受けて奉殺されてしまっ た。 自天王の御首級や神璽は川上村の御所仕えの武士によって奪還されて、自天王の御首 級は 金剛寺に埋葬された。

自天王が川上村で即位されたのは1454年02月05日(新暦;旧暦01月03日)であるが、 その即位された日の儀式である朝賀大礼を再現するとして、奉殺された翌年の長禄2 (1458) 年02月05日から『御朝拝式』として、(以前は)自天王の御首級と神璽を奪還した派 兵軍の 子孫、すなわち「筋目」によって行なわれてきた。これは他村からの闖入者を警戒し たためで、 「咥葉」は余所者に無駄口を言わない、という戒めからだという。まさに自天王が奉 殺された のは村民が余所者を信用したことと、一之宮、二之宮の居場所を話してしまったとい う自責が 有るからであろう。

御朝拝式は真摯に厳粛に行なわれ、村の人々の崇敬心溢れる儀式であった。

「色川文書」という二之宮が現・那智勝浦町で1455年に発給したという「忠義王文 書」等の 史料を元に、川上村における後南朝伝承について研究された呉座勇一氏の論文が有 る。 この論文を知った以上、村の人達の真摯な姿勢とは別として歴史背景の解釈の一つと して 下記に書かざるえない。論文の内容に関しては、論文を読んだ諸氏の感想に任せた い。

論文は「参考文献」に記した。 御朝拝式は本年で第566回という。本年の2023年から引き算をすると1457年になる が、自天王 の即位式である朝賀大礼(1454年だが)を一回目としたのだろうか。であると、崩御 後の実質 第一回目の『御朝拝式』、つまり1458年が2回目になる。

朝賀大礼で、自天王が1454年02月05日に即位の儀式を行って紀州、熊野、越中加賀、 畿内など から郷士総勢1122人が参列したとの記録は、川上村に伝わる史料『朝拝実記』によっ ている。

この資料、実は江戸時代後期の作という説が書かれた呉座勇一氏による論文がある。 呉座氏によると、江戸時代初期までは川上村の史蹟は後南朝ではなく、南朝時代の史 蹟と伝わって いたのが、水戸藩の【大日本史】編纂の頃の史料採訪の頃に後南朝史蹟に衣替えした のだという。

一之宮と二之宮が同時に襲撃され、金剛寺(川上村神之谷)と瀧川寺(上北山村)に 墓所が存在 するが、二之宮には、『御朝拝式』では触れられていない。

これは不思議な事であるが、同氏の論文を読むと、『御朝拝式』の創始は宝永4 (1707)年から 大きくは遡らないとされている。そして二之宮が忠義王という名前で後南朝皇子とし て存在が 確立したのは、文政4(1821)年の『残桜記』によるとしているのだ。つまり『御朝 拝式』が 江戸時代中期に始まった時、忠義王としての名前の存在は未知だった訳である。これ は異説 のように思えるが、『御朝拝式』が自天王に特化している疑問が解決するように思え る。

なるほど金剛寺は自天王の首塚の菩提寺であるにせよ、金剛寺の近くには二之宮の行 在所が有った ことを思うと、二之宮に触れないことに疑問が大きい。

上写真;朝拝殿から出立。筋目たる総代を先頭に、出仕人、大目付、後見、作事役、 立衆そして 庄座らが続く。金剛寺の僧侶が見守る横を筋目らが行くのが、お寺の行事でないこと を表している。

上写真;自天王神社前の儀

上写真;御朝拝の儀。開扉され自天王の甲冑が顕れると拝が斎行される。 咥葉で御奉仕されている。 甲冑については【後南朝史論集】(参考文献参照)の中に、「自天王所用の甲冑につ いて」 という山上八郎氏の視察結果が掲載されており、室町初期の逸品ということである。 なお胴丸に関しては江戸時代の出火で損傷した部分を、昭和47(1972)年に修復して いる。

上写真;御陵参拝の儀。参拝は頭を下げるが、柏手はうたない。

上写真;幔幕

上写真;「後南朝 最後の古戦場」「御首載石跡」の碑。 奉殺された自天王の御首級を奪い返した場所に、碑が立つ。

上写真;川上村の後南朝関連 参考文献(左上から時計回りで)

増田隆氏著【沈黙する伝承 川上村における南朝皇胤追慕】
中谷順一氏著【後南朝秘話 天を望まん】
中谷順一氏著【後南朝秘史 南帝由来考】
伊藤獨氏著【悲運の南朝皇胤 並 自天王祭祀について】
秋田殖康氏著【悲惨 後南朝皇胤 三皇子の苦悶】
赤松光夫氏著【後南朝史 神璽喪失】
森茂暁氏著【闇の歴史、後南朝】
呉座勇一氏論文【「色川文書」所収の忠義王文書に関する一考察 受容過程を中心に】
後南朝史編纂会編 瀧川政次郎氏監修【後南朝史論集】
歴史読本【検証 後南朝秘録】2007年07月号
安井久善氏著【後南朝史話】
谷崎潤一郎氏著【吉野葛】


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Last Updated  2023-02-11