日本! (南北朝)
No.22 宗良親王 御墓

宗良親王は応長元年(1311)の御誕生とされるが、後醍醐天皇の何番目の皇子である かは諸説ある。

太平記では第二皇子、信濃宮傳では第三皇子、本朝皇胤紹雲録では第八となり、近世 の研究家である 川田順氏は第五皇子とされている。南朝側の記録が散逸あるいは焼却されて当時の諸 書や書簡などで 記録がまちまちな為でもあろうが、あるいは後醍醐天皇が女御に多くの子をもうけた 故に戸籍の申請 など無い時代に誰がどこで出産したかも分からなかったのかもしれない、等と野暮な 想像もする。

ともあれ幼少の頃から比叡山延暦寺に出家僧として入れられて座主までなるも、後醍 醐天皇の挙兵で 尊澄法親王と名乗っていたが延元二年(1337)に還俗して後の宗良親王の人生は一変 する。

後醍醐天皇の各地制圧と京を奪還する拠点作りのため、多くの皇子同様に宗良親王も 法衣を捨てて 甲冑に身を纏って各地を転戦することとなる。遠江、駿河、信濃、越後、越中、坂 東、吉野など、、、。

戦う一方で宗良親王には自身の歌を集めた「李花集」そして南朝の天皇や、公家の歌 をあつめた 「新葉和歌集」の編纂など、現代まで残る歌人としての存在感も伝わっている。 その「新葉和歌集」が当時の南朝第三代天皇である長慶天皇に弘和元年(1381)に奉 覧されて以降の、 宗良親王の動向は分かっていない。よって没地も分かっていない。

ただし現在では諸史料などから、弘和元年(1381)から元中六年(1389)の間に信濃 大河原で没した とする説が有力だ(参考;森茂暁著「皇子たちの南北朝」中公新書P.158)。さら に絞り込むと、 元中二年(1385)八月十日、74歳とする書籍(参考;松尾四郎著「宗良親王 信濃大 河原の三十年」 松尾書店P.40)もある。古い書籍では井伊谷で死去されたとされ、前記の日付は井 伊龍潭寺での 記録によっているようだ(参考書;川田順著「宗良親王」昭和13年刊、第一書房)。

ただしこの没年 の頃には南朝側としての井伊城は落城しており、宗良親王が晩年を過ごすことは困難 だったろう

(落城については参考書「南北朝 武将列伝」牡丹健一筆、戎光祥出版、P.185)。 今回は X-ファイル的な異説、そしてトンデモ古墳までUP してみた。


■ 信濃大河原(長野県下伊那郡大鹿村大河原上蔵) 令和3(2021)年10月24日 撮影

各地を転戦する中でも一番長く本拠地としていたのが香坂高宗の本城が有って 庇護されていた大河原(現・長野県下伊那郡大鹿村大河原)で、延べ30数年にも 及んでいる。

宮内庁が定めた場所は、遠江で滞在していた 現在の 井伊谷宮(静岡県浜松市北区 引佐町)である。

ただし時の 吉野朝(南朝)の 長慶天皇の 歌には、宗良親王が吉野滞在から信濃 に向かった、とうたわれており、現在では信濃でも長く滞在していた 大鹿村の大河 原で 終焉を迎えたとの説が濃厚である。

宗良親王の足跡を訪ねて、大鹿村を歩いてみた。

添付写真は 大鹿村釜沢の 宇佐八幡社境内にある 宗良親王のものではないかと伝わ る 宝篋印塔の近くでの写真もある。足利賊からの追っ手から隠れるために、とんでもな い 山の中に住みついていたのだ。京を奪還する日を夢みながら、深山に隠棲する、、、 吉野では32歳も若い、まるで息子のような世代の 長慶天皇の御世であり、自分の居 場所 が無かったのだろう。

戦乱にあけくれた74年の生涯、最後に見た景色は 添付写真のような、南アルプスに 積もった雪だったかもしれない。

雪が積もっているのは、赤石岳(3121m)か 聖岳(3013m)だろうか。 宗良親王が見た景色と、大して変わっていないだろう。 没地は諸説ある中で前記の森氏著書によると、京都醍醐寺の『三宝院文書』から見つ かった 「大草の宮の御歌」という史料に依拠して、大河原とする説が有力ということであ る。

上写真;大河原上蔵の大河原城方面を望む。宗良親王を護った香坂高宗の館方面でも ある。 写真の中央の山の中腹あたりに、香坂高宗の御墓がある。

上写真2枚;大河原釡沢の宇佐八幡社に宗良親王の供養塔と云われる宝篋印塔があ る。 隅飾突起の傾きなどは室町時代中期の外観で時代的にもズレは無いが、銘が無く詳細 は不明だ。

上写真;宇佐八幡宮の近くの道路から宗良親王も眺めたであろう景観を、撮影中の私 (妻が撮影)。
宗良親王が『新葉和歌集』の編纂のために河内山田に滞在したのは、天授五年〜六年 (1379〜1380) と云われ、その後に長慶天皇に奉進した弘和元年(1381)には、既にその前年に香坂 高宗の大河原城 は落城していたという。しかし元中元年(1384)年に幕府賊軍が大河原を攻めた記録 があるようで、 落城後に香坂氏一族が回復したのだろう。だがやはり最期は大河原御所平でむかえた のだろう。
なお御所平へは2020年の集中豪雨で道路が崩れ、通行不可となっている(2023年10月 時点)。
役場へ問い合わせたが、車で行けないというより道自体が崩れて無くなったようだ。


■ 井伊谷宮(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷) 令和2(2020)年10月18日 撮影

宮内庁によって比定された御陵が井伊谷宮境内にある。明治二年(1869)、彦根藩主 だった井伊直憲 の働きかけで宗良親王を御祭神とする井伊谷宮が完成し、明治六年(1873)には官幣 中社に列せられた。

「南朝遺文」などでは井伊谷城で元中二年(1385)に没したとされているが、この頃 には既に井伊谷城 は落城しており、井伊氏も没落して三河に逃げてこの地に居なかったという(書籍 「宗良親王 信濃 大河原の三十年」P.185、191)。

明治に入っての皇国史観を背景に、この地が出身地である井伊家がアイデンティティ を求めた、政治的な 要素が匂う。


■ 親王塚古墳(愛知県春日井市大留町) 令和5(2023)年07月15日 撮影

「古墳」とは3世紀半ばから7世紀にかけて墳丘をなして築盛された墳墓を、特にさ して云う。

鎌倉時代から室町時代にかけて、まさに南北朝時代に鎌倉府周辺で穿たれた「やぐ ら」という 横穴式墳墓などを代表例として、それらは「中世墳墓」と呼び、埋葬施設であっても 古墳ではない。

しかし、、、明らかに時代が合わないにも関わらず宗良親王もしくは護良親王の遺品 を埋葬したと地元で 伝わっている「古墳」が存在している。

愛知県春日井市大留町の「親王塚古墳」である。

この古墳は神明神社の境内にあり、説明看板によると直径15mの円墳ということで ある。

昭和44(1969)年に発掘調査が行われ、石室内の玄室奥壁側から頭蓋骨の一部、須恵 器、金環、鉄鏃、刀子など が出土している。出土遺物から6世紀中葉に築造されて後葉にかけて複数の人が埋葬 されたということである。

(被葬者不明・調査後復元保存) 宗良親王や護良親王とは全く関係ないのに、遺品を埋葬したという地元伝承に由来し て「親王塚古墳」と呼ばれて いるのが面白い。この地元の人々には、南北朝の悲劇の親王の存在が意識の中に生き ていたということだろう。

それにしても昭和44年まで盗掘されずに残っていたのは奇跡だ。今でこそ住宅街の中 だが、発掘当時は野原の中の 鎮守の森的な神域だったのだろう。


■ 太平山常福寺(長野県伊那市長谷溝口) 令和5(2023)年07月15日 撮影

後醍醐天皇の皇子である宗良親王の最期の地については諸説有る。

なぜ多説が有るかと云えば、南朝側の資料としては残っておらず、 主に京の公家や僧院などが伝え聞いた事を書き記した史料に依っている為である (ようやく戦乱から平穏が訪れようとしていた頃、南軍の征夷大将軍にもなった 宗良親王の存在は依然として恐怖であり、死去に対する希望的な噂が流れ、それが 真実の如くに記録に残った物も含まれるのだろう)。

ともあれ前記の場所のうち信州大河原と遠州井伊谷は京の史料に記載が残っている のであるが、京の記録には残らず、地方史料にのみ伝わる終焉地が存在してる。

それは越中であり、河内山田は関しては史料も史蹟も無い、想像の域の場所だ。

それでも前記の場所は検討の余地がある場所ばかりだ。

しかし X−ファイル に属するような終焉地と伝わる場所が、異説として存在してい る。

この異説が 越中と異なり Xーファイル と思うのは、後記するように 古史古伝の 発見過程的だからだ。

添付写真はその異説の有る宗良親王終焉地の常福寺である。

このお寺の背後は北條時行が立て籠もり、足利方の小笠原貞宗と戦った大徳王寺城跡 と 伝わる郭が存在しており、隣接する御山と称する場所には宗良親王の墓石と云われる 無縫塔が存在している。

一般に無縫塔は僧侶の石塔ゆえに、明治の中頃に地中に埋もれた状態で見つかった時 には 僧侶の墓石と思われていたそうだ。それが昭和6(1931)年に地元の郷土史家が調査 した ところ、塔身に菊の御紋と「尊澄法親王」の文字と造塔者である尹良親王(宗良親王 の御子) の名が刻されているのが分かり、宗良親王の御墓として安置されることになった。

昭和15(1940)年、常福寺の屋根を修理中、屋根裏から僧形坐像が落下し、その胎内 から 古文書と観音像が見つかった。その古文書には石塔を裏付けるような内容が書かれて いた。

すなわち「元中二年(1385)、新田一族、桃井、香坂、知久らの武将と宗良親王は諏 訪祝 (上社)に向かっていたところ、逆賊に討たれてしまった。尹良親王が当寺に来て、 父宮の 宗良親王や新田一族の菩提を弔い、法像を建立して法塔を造立した」 ということが、元中八年(1391)に大徳王寺の僧侶によって書かれて納めされていた のである。

天井から落下、、、古文書、、、石塔、、、

なんだか古史古伝『東日流外三郡誌』のエピソードを連想してしまう。石塔や天井か ら 落ちてきた時代を思えば、「それらによってアイデンティティ」を示そうとした皇国 史観の 時代に合致しているように思える。

この場所は信州大河原から諏訪へ向かう 今では国道152号線沿いであり、まさしく宗 良親王 も歩いたであろうルート上である。しかし宗良親王が討たれたのであれば討った幕府 側の兵 には武勲として京にも記録が残ったであろう。が、それが無く地方史だけであるのは 史実 としての信憑性は、どうかと思う。

上写真2枚;宗良親王の墓石。菊の御紋が見える?

上写真2枚;天井から落下した僧形坐像と、謂れが書かれた胎内文書。

上写真2枚;宗良親王を護って戦死した新田一族の位牌と、新田一族を祀る祠。

上写真;大徳王寺城の郭址。


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Last Updated  2023-10-23