日本! (南北朝)
No.23 南朝(懐良親王・良成親王 御墓)
後醍醐天皇の第六王子(「太平記」説)である 懐良親王は 元徳元年(1329)ころに生まれたとの推定説を元にすれば、僅か9歳の時の 延元三年(1338)年には「征西将軍」に任命されて九州に赴くことが運命と なった。と同時に勘解由次官五條頼元以下12名を随従させて吉野を発した。 延元四年(1339)年には後醍醐天皇が崩御され、懐良親王の一歳年上である 後村上天皇が吉野朝第二代天皇に即位した。

興国三年(1342)に懐良親王は九州の薩摩に上陸。奉迎の地を求めて北上、 正平三年(1348)ころ、肥後の菊池武光の館に御所を構えることとなった。 吉野では四条畷の合戦で楠木正行が戦死して吉野が炎上する頃、やっと懐良 親王は九州で支援してくれる有力武将に出会えたのである。

以降、菊池勢を中心として南朝側になった武将らと九州の足利賊軍側との 戦いの日々が続く。

正平十六年(1361)には大宰府に入り九州全土の最大勢力となり、親王自身が 「征西府将軍宮」として大宰府陥落の文中元年(1372)までの12年間は日宋貿易 においても日本国王として遇されるなど南朝の全盛時代を保った。

正平末年頃には後村上天皇の第六皇子と云われる良成親王が九州に下向している。

懐良親王の甥っ子ということになる。

文中三年(1374)には懐良親王と菊池一族は本拠地の菊池に退却した。

この文中三年には懐良親王と良成親王の両方の令旨が存在することから、 この頃に将軍職の授受が行われたと考えられる。良成親王が「後征西将軍宮」と なったのである。

懐良親王は良成親王に将軍職を譲ると、筑後矢部(現・福岡県八女市矢部)を 経て星野の大円寺(福岡県八女市星野)に入在した。そして弘和三年(1383)に 没したという。

没地はその大円寺、あるいは筑後の矢部(八女市矢部)または妙見城(熊本県 八代市)とも云われる。吉野では長慶天皇が後亀山天皇に譲位した頃である。

元中六年(1389)、懐良親王妃、筑後星野にて没。

懐良親王そして妃の没後も「後征西府将軍宮」としての良成親王は狭まる包囲網 の中で、足利賊軍との戦いを続けた。

やがて元中九年(北朝元号は明徳三年;1392)、南北両朝の合一が成ったが、 良成親王は矢部の奥地である大杣(福岡県八女市矢部大杣)に御所を構えて抗戦 の姿勢を崩さなかった。

元中十二年(1395)年に良成親王から五條頼治(頼元の孫)にあてた感状が 五條家文書に残っている。南北合一の3年後も南朝の元号を使っていることから 足利賊軍・北朝への徹底抗戦姿勢を知ることができる。ただこの文書を発給直後 に良成親王は大杣にて没したようだ。良成親王妃は子を宿したまま菊池から大杣 へ向かう途中に亡くなったと伝わっている。よって九州における南朝の血脈は 途絶えて何十年にも及ぶ後南朝の逸話は無いようだ。


■ 福岡県八女市星野村
 令和5(2023)年03月19日撮影

上写真3枚;懐良親王は星野村の大円寺にて亡くなり、背後の大明神山に埋葬 されたという。

この時の史跡巡りには、熊本空港レンタカーで発売直後の60系プリウスを指定 して借りた。走行距離がまだ300Kmほどの、バリバリの新車だった。

対向車とすれ違い不可能な隘路を登っていくと親王が暮らした星野の集落が眼下 に見え、やがて墓所に着いた。五輪塔は新しく、ちょっと趣に欠けて残念だ。

もともとは埋葬された場所に観音堂が立っていたらしい。そこの御本尊である 聖観音立像は現在、大円寺境内の資料館に保管されている。

上写真2枚;星野川の橋の近くに「懐良親王終焉の地」の碑と、大明神山の墓所 への遥拝所がある。

上写真3枚;良成親王に譲位後に過ごし、そして没したと伝わる大円寺。 その境内には懐良親王妃の五輪塔がある。境内から元中六年(1389)と刻まれた 五輪塔の地輪が昭和11(1936)年に発見されており、親王妃の墓塔と伝わる。

境内の記念石碑には、懐良親王が建徳二年(1371)に宗良親王に送った和歌が 刻まれている。宗良親王の和歌集「李花集」に納められた歌である。


■ 熊本県八代市妙見町
 令和5(2023)年03月20日撮影

興国三年(1342)に懐良親王は九州の薩摩に上陸した懐良親王は北上を開始し、 正平二年(1347)に現在の八代市奈良木町宮園に10日間滞在した。その後、懐良 親王没後の良成親王の世になって「後征西府」は各地を転々としながらも、八代 市高田の地に御所を構えた。

その八代市にも懐良親王の墓所が存在する。こちらは明治11年に宮内省が円墳を 墳墓と指定している。

書物「九州の南朝(P.205)」においては、火葬された親王は大円寺で仮の葬儀 が行われた後に遺骨は八代悟真寺に運ばれて葬儀が行われた。分骨は大円寺裏山 の大明神山に埋葬された、と書かれている。

上写真4枚;懐良親王の墓所と指定されている円墳。その中には宝篋印塔が安座 されているが、これは親王が母親の供養のために天授七年(1381)に奉納された もので、大正時代に地中から発見されたものである。基壇に願文と願主として天 心叟という、懐良親王の名の銘も残っている。
円墳の近くの悟真寺には親王が両親の供養に収めた霊牌が存在している。
(表)登霞後醍醐天皇、還化霊照院禅定尼
(裏)延元四年八月十六日崩御、正平六年三月廿九日入滅


■ 福岡県久留米市山本町
令和5年11月04日撮影

X−ファイル的な超異説がある。懐良親王は大宰府攻略の前段階である大保原の 合戦(正平14;1359年)で負傷し、その傷がもとで亡くなったというのだ。
大保原から近い千光寺には親王の御墓が存在している。

上写真2枚;懐良親王の御墓の有る千光寺と御墓。


■ 福岡県八女市矢部村北矢部
令和5(2023)年03月19日撮影 矢部でもなかりの山間に、「後征西府宮良成親王」が御所を構えて晩年を迎えた 北矢部の大杣御所跡がある。現在は親王の御墓が大杣公園として整備されてい る。

宗良親王の大河原や後南朝の一・二ノ宮の川上・上北山村でもそうだが、かなり の山間に隠れて戦っていたことが分かる。南朝の血脈としての運命を背負った 過酷な人生だったろう。

良成親王は上記したように、南北朝の合一後も恭順せずに南朝元号で文書を発給 するなど、徹底抗戦の姿勢を崩していなかった。それが突然に消息を絶つのであ る、、、。

その最期は謎めいているように思えてならない。

上写真3枚;大杣への途中の道。このような山中に御所が有ったのだ。
そして親王の御墓。

《参考文献》
「皇子たちの南北朝」森茂暁著:中公新書
「懐良親王」森茂暁著:ミネルヴァ書房
「南北朝 武将列伝」戎光祥出版
「九州の南朝」太郎良盛幸・佐藤一則著:新泉社
「後征西将軍宮発給文書考」川添昭二著:古文書研究第19号別刷


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Last Updated  2024-06-05