■ 令和6(2024)年09月22日(日) 福岡県八女市黒木町大淵 後醍醐天皇第六皇子の懐良親王は延元3(1338)年に征西代将軍に任じられて 九州へ向けて出立。 正平16(1361)年、太宰府に征西府を開府して九州に南朝の王国を樹立した。 懐良親王が吉野朝から出立してから23年が経っていた。 その吉野を出立した時に随従したのは僅か12人で、筆頭が五條頼元であった。 頼元から第25代五條家当主によって「御旗祭り」が五條家において斎行された ので奉拝してきた。 懐良親王が吉野出立にあたり後醍醐天皇から賜った「御旗」を「金烏の御旗」と いうが、その金烏の御旗(八幡大菩薩旗)が五條家に伝わっており、その御旗が 祭典において祀られる。 金烏とは太陽であり、その上に書かれた八幡大菩薩は後醍醐天皇御直筆である。 五條頼元は正平22(1367)年に没するが、二代良氏、三代良遠、四代頼治、 五代良量と征西将軍宮懐良親王そして後征西将軍宮良成親王を守護し奉り、矢部 を本拠に忠節苦節を全うした。南北朝合一後も矢部に残って奥八女の有力土豪 として勢力を保持した。五條家代14代長安の時に柳河藩主立花宗茂公に仕え、 寛永3(1636)年に旧縁の現在地である大淵に還った。現在の五條家建築物は 300年を経た武家屋敷で、市指定文化財になっている。 現在も矢部の後征西将軍宮良成親王大杣陵墓は五條家が代々、宮内庁陵墓守部 としてお守りされていらっしゃる。 五條家には数々の南北朝時代以来の宝物が存在している。前記の「金烏の御旗」 のみならず、鎌倉時代から戦国時代に至る書状全369通が17巻に納められた 「五条家文書」は、古文書としても貴重である。その中には南朝の天皇や親王 そして武将の書などが収蔵されている。伝であるが五條頼元の甲冑、良成親王の 具足類も所蔵されている。 その地域一帯が歴史の伝承に努めておられ、南朝の息吹が生きたまま伝わって いる雰囲気は全国の南北朝史においても稀である。また来年も奉拝させて頂き たいものである(深謝)。 なお現場には南北朝研究の第一人者であられる森茂暁先生が来場されており、 ちょうど持っていた氏の書物「皇子たちの南北朝」(中公文庫)にサインを 頂けて嬉しかった。 祭典の前夜の最終フライトで熊本へ飛びレンタカーを借りてホテルに投宿、 翌朝に五條家の福岡県八女市黒木町大淵へ走った。 夜間は雷鳴轟く大雨の超悪天候であったが、祭典の行われる頃には雨も上がって 多くの参拝者が見守る中で行われた。 御旗祭りの祭典後には懐良親王が祈願した相良寺(熊本県山鹿市菊鹿町)に 参詣、そして親王らを支えた武将菊池武光らの眠る正観寺(菊池市隈府)にも 参詣した。 その後、大谷の湯(菊陽町原水)で汗を流した後、熊本発の最終フライトで 帰宅した。 |
上写真;五條家玄関 |
上写真;祭壇。右に後征西将軍宮良成親王具足、五条文書(写真)、金烏の御旗、 五條頼元甲冑、当世具足、陣羽織などが並ぶ。 |
上写真;征西将軍宮軍旗である金烏の御旗 八幡大菩薩旗。 |
上写真;祭典で五條家当主による修祓。 |
■ 吾平山相良寺(相良観音)、熊本県山鹿市菊鹿町相良
比叡山延暦寺の末寺で、最澄上人によって1200年前に開かれた。御本尊は 木彫座像として国内最大の十一面千手観音菩薩である。 正平3(1348)年、五條頼元が恵良惟澄に宛てた書状には懐良親王が 06月12日から20日の間、当寺に参籠されて戦勝祈願をされたという。 |
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Last Updated 2024-09-29