日本! (南北朝)
No.4 南朝(自天王・忠義王)
尊義王第一皇子;自天王(尊秀王・一之宮・北山宮)1440年02月05日生―1457年12月02日没

尊義王第二皇子;忠義王(二之宮・河野宮)1446年02月25日生―1480年03月17日美作にて没(?)

 建武3年・延元元年(1336)12月に足利尊氏に反旗を翻した後醍醐天皇が吉野へ動 座以来、 二つの朝廷、つまり京の北朝と吉野朝(南朝)に皇室が分裂した 南朝4代、後亀山天皇と北朝6代・後小松天皇と足利義満の間で南北朝合一の和議が成 立し たのは明徳3年・元中9年(1392)年10月28日。 南朝側の後亀山天皇が上皇として退位、北朝側の後小松天皇が譲位して名目上は南北 朝は合体した。

その講和条件も応永18年(1411)11月25日に、足利賊の思惑によって後小松天皇が皇 太子・ 躬仁親王を称光天皇として即位させたことにより、明徳の条約は反古にされた。 これによって後亀山上皇は小倉宮実仁親王と共に京都を発ち、再び吉野へ潜行し、北 朝・南朝とに再び分裂 し、その後を「後南朝」と称する。

康正元年(1455)2月5日に南朝皇胤となる尊秀王は16歳で自天親王(北山宮)として 即位し 現在の上北山村小橡の瀧川寺を行宮とした 京都からの防備上の役割を担う意味で,伯母峰峠を越えた川上村神之谷には弟の忠義 王(河野宮)も御所を定めた。 吉野朝に将軍足利義教は南朝の忠臣だった赤松家家臣団を康正2年(1456)12月20日 に密使として送り込んだ。

赤松家家臣団は南朝再興を装いながら近づいたが、実際は嘉吉元年(1441)6月24日 に赤松満祐が 将軍足利義教を暗殺したことによって赤松家は幕府に滅ぼされおりその赤松家再興の 交換条件 として吉野朝にある神璽を奪回し両宮を謀殺することを黙約したものだった 一年後の長禄元年12月2日、吉野は大雪に閉ざされ、この期に乗じて赤松家臣団は蜂 起し、 目的とする北山宮を誅し,その首級と神璽を抱えて,一路,京都を目指すべき北山か ら伯母峰を越えて行った(長禄の変)。 ただし、忠義王も弑されたかは不明である。

この凶報は吉野川に沿って、南朝を擁護する川上郷民に一気に伝わり、その沿道・沿 岸で赤松家臣団は 郷民からの反撃を受け寺尾にて郷民は首級と神璽を取り戻したとされる。 (以上は 川上村寺尾の「後南朝最後の古戦場」碑解説文より、一部修正にて)


■ 小倉宮廟所(住吉社)(奈良県吉野郡川上村東川)


集落裏の山の参道に立つ碑には「小倉宮寛仁※(みひと)親王御墓」とあり石段を 上がって行くと尾根を歩く道となるがお社に着く。
(※碑には寛仁という漢字表記だが、川上村書物では実仁という漢字でも書いてあ る)

正史に「小倉宮寛仁親王」という親王は存在せず、小倉宮は後亀山天皇の子である 恒敦、そして同じく小倉宮を名乗る 恒敦の子である、聖承である。 しかし川上郷伝承では、後亀山天皇の子である寛仁(実仁親王と聖承は同一人物とい うこと になっている。

この人物の第4子に 万寿寺空因(まんじゅじくういん)尊義(たかよし)親王がお り、 その子が川上村・上北山村における悲劇の皇子である 尊秀(たかひで)親王(一ノ 宮・ 自天王・北山宮)と 忠義(ただよし)親王(二ノ宮・河野宮)である。

嘉吉3(1443)年、源尊秀ら200〜300人が 後花園天皇の内裏を襲撃し、三種の神器 のうちの神爾を奪い 去った いわゆる『禁闕(きんけつ)の変』が起こった。 南北朝合一の約束が守られず神器が北朝側に有るゆえ、南朝としては喉から手が出る ほど欲しかったのが、 神器である。

この襲撃実行の多くが捕らえられるか討ち死にしたが、寛仁(みひと)親王の猶子と なっていた円満院円胤・ 義有親王(北山宮、河野宮の叔父)は神爾を携えてこの東川の行宮に戻ったという。 この東川の行宮はやがて三之公へ遷されるが、それまでこの地には神器が安座してい たのだ。


■ 南帝王の森(奈良県吉野郡川上村大字高原)


上写真の右側が宮内庁が管理する御陵参考地内部で、左のお社が自天王神社である。 一の宮(北山宮、尊秀親王)が赤松遺臣に討たれた時、二の宮(河野宮、忠義親王) も 同時襲撃されて落命したとする説が有る一方、脱出してこの高原で生き延びた という説もある。

生き延びた二の宮はやがて病を得て、この地で薨去されて埋葬されたという。ゆえに この宮内庁が管理する 御陵参考地は、二の宮の陵墓と考えられているのだ。参考地内には崩れた石垣が若干 残り、一基の 宝篋印塔が 安座していた。宝篋印塔は喪失部分と欠落部分が有るのが残念だが、時代的には室町 時代中期の姿をしており、 二の宮の薨去時期に一致すると思われる。

しかし二の宮の陵墓参考地の横のお社が一の宮である、自天王が御祭神なのが謎であ る。

上の二段目写真は、その御陵からの展望である。山の中だ。京の都ではなく、ここに 天皇の血筋の 高貴な親王が住んでいたかと思うと、その運命の厳しさに塗炭の苦しみだったろう。 御陵参考地は、山の頂上に位置するように見えた。

足利賊からの襲来を監視しやすい場所を選んだのかもしれないが、山城のような郭 (曲輪)を設け ていたかは、現在では不明だ。


■ 御首載石跡(奈良県吉野郡川上村寺尾)


上写真;長禄元年(1444)、雪の降り続く夜だった。
足利将軍家の内紛に端を発した赤松家の名誉回復を狙った赤松氏の遺臣 間島彦四郎 らが、南朝の皇胤 である一の宮(北山宮)と二の宮(河野宮)を襲撃、奉持していた神爾を奪った。赤 松遺臣らは両親王の 首級と神爾を携えて京へ脱出を図ったが、折からの大雪に行く手を阻まれ、駆け付け た川上村郷士らに よって討ち取られた。赤松遺臣を討ち取ったのが「後南朝最後の合戦」を意味し、川 上村郷士が 両親王の首級と神爾を奪い返して石の上に載せて伏し拝んだのが「御首載石跡」であ る。
(※ 二の宮・忠義王は脱出したとも伝わる)


■ 北山行宮(奈良県吉野郡川上村神之谷)


河野宮(二の宮、忠義王)の行宮が有ったという場所には現在、 清谷神社が鎮座し ている。

神之谷川の上流に位置しているから、水の神の神格も有しているだろうが、忠義王が 御祭神かと思われる。 対向車が来るとすれ違いが困難な山道を行くのだが、この奥に人家は無いから参拝に 訪れる人は山仕事の人か、 後南朝ファンが殆どだろう。

川の流れる音と鳥の声が聞こえるだけの、深山である。

長禄元年(1457)年12月02日の夜半、この行宮にも赤松遺臣の襲撃が有ったが、間一 髪で忠義王は 脱出したとの説も有る。

このような山中の行宮だが、本によると(※)山を越えて伊勢や熊野方面との交通に よって北畠 や熊野水軍の支援が有ったという。当然、サポーターが居てこその半籠城生活だった わけだ。

とは云え、伊勢へ流れる宮川の水源まで直線で10Km弱だから近そうに思えるが、途中 には台高山脈や大台ケ原が 立ちふさがっている。現代人が思いもよらぬ杣道での往来だったろう。

(※;「歴史読本 2007年07月号)


■ 金剛寺(奈良県吉野郡川上村神之谷)


川上村における 後南朝の、象徴的な看板だ。 「後南帝菩提寺」 帝とは、自天王(一之宮、北山宮、尊秀王)を指す。

自天王は後醍醐天皇から数えて、七代も後の帝である( 川上郷伝承による。後醍醐 天皇を初代 として、長慶天皇も含めて。即位不明皇子も含め。)。 元中九年(1392年)に南北が合一後、65年も経っている長禄元年(1457年)の 南帝 の死去である。

川上村の金剛寺には「 後南帝菩提寺 」と掲示されているにも関わらず、陵墓には「 河野宮墓 宮内庁」 と掲示され、両者に不一致が見られる。それは参道階段下左右にも「尊秀王(後南 帝)墓」 と大きく石に 刻まれているのに、小さく更に「河野宮墓」とも石碑が有り、どっちなの?という疑 問が出る。

まず川上村の伝承によると、長禄の変(1457年)で足利賊の臣で赤松党によって後南 帝(北山宮、尊秀王 一之宮、自天王)と河野宮(二之宮、忠義王)が神爾を奪われると同時に殺戮されて しまった(河野宮は生存説あり)。 川上村の郷士は赤松党を追跡し、賊を討つと同時に 首級を奪い返し、金剛寺に埋葬 したという。そして尊秀王 (後南帝)と忠義王を供養する墓所を設けたという。

ならば参道左右の碑には連名で記載されても良いだろうし、宮内庁が「河野宮墓」 と、尊秀王を省いたような掲示 をするのが変である。実はこれには明治時代の「珍事」の名残なのである。 金剛寺の陵墓は明治15(1882)年に宮内省によって「後亀山天皇玄孫 北山宮(尊秀 王、南帝、一之宮) 御墓」に治定されていた。

それが明治45(1912)年になって、上北山村小橡の龍川寺の住職 林水月が宮内省に 働きかけて、自分の 寺を北山宮の御墓であり、金剛寺は河野宮の御墓である、という治定を下させてし まったのだ。

この時以来、宮内庁の治定では金剛寺は河野宮、龍川寺が北山宮の陵墓ということに なり、現在に至っている。

しかし実際は、それが正しいとは思えない。

金剛寺に首級を埋葬したなら金剛寺は首塚であり、龍川寺に北山御所が有り惨劇の舞 台なら、龍川寺は胴塚であるはずだ。

ともあれ金剛寺背後の陵墓へ登ってみると、石塔が二基並んでいる。残念ながら 完 存ではなく、宝篋印塔の 基礎ばかり積み、申し訳程度に笠を載せた いわゆる寄せ集め塔 である。 足利賊の 時代から続く北朝の世に、 迫害を受けて損傷された可能性が高いのであろう。


■ 瀧川寺(奈良県吉野郡上北山村小橡)


小橡川に架かる橋を渡り、瀧川寺に着いた。一之宮(自天王、北山宮、尊秀王)の行 宮が有った場所である。

門前の碑を読むと、「南朝遺跡 南帝山瀧川寺」「神器奉安之聖跡」「北山宮御所 址」 そして幕には、菊の御紋、、、打ち震える程の感動だ。 本堂横の階段を上がり、北山宮(自天王、一之宮、尊秀王)の陵墓に参る。

金剛寺の文 において記したように 明治45(1912)年以降、瀧川寺の御墓は 北山宮 の御陵ということに治定されている。

「長禄の変」において、ここに存在した北山宮行宮で討たれた北山宮の御首級は川上 郷士によって賊から奪い 返され、金剛寺(川上村神之谷)に埋葬されたという。であるから、この瀧川寺は胴 を埋葬した胴塚であり、 どちらのお寺が本当だ、ということにはならないはずだ。

金剛寺では同時に討たれた(らしい) 二之宮(河野宮)の首級も埋葬したというこ とで、 寄せ集め宝篋印塔が二基、並んでいた。 しかしここ瀧川寺において、墓石は一基だ けで あった。

形式は 笠付き角柱型で、主に室町時代末期から江戸期を主流として明治後まで用い られた様式である。

北山宮の没年頃の石塔としては新しく思うが、後世の供養塔なのであろう。柵の中に は入れないので 石塔表面の刻を読むことはできなかった。


■ 三之公神社(奈良県吉野郡川上村入之波)


川上村入之波に、北山宮と河野宮の父君であられる尊義王を御祭神とする神社が、鎮 座している。

三之公神社であるが、三之公とはその三人の皇族を指すから、御祭神は広義では三人 であるかもしれない。 尊義王は薨去される前年に皇位を尊秀王に譲位されて、尊秀王は自天王として即位さ れている。

ただ、川上郷伝承と京における公家らの日記などに基づく記録では違いが有るので、 その点が混乱する。 川上郷伝承記録では尊義王は万寿寺空因・金蔵主を指しているが、京の記録では金蔵 主は禁闕の変(1443年) の折に比叡山で戦死されている。

三之公神社は元は三之公隠し平にあったが、昭和3年(1928)入之波の氏神境内に移 転、さらに大迫ダム建設に よって昭和47(1972)年に現在地に奉遷された。


■ 大河内行宮(三重県熊野市紀和町大河内)


1392年の合一から 63年も経った 享徳4(1455)年、自天王と忠義王という南朝の兄 弟の宮は、大河内の行宮 において、挙兵の準備をしたという。 しかし軍兵は思ったほど集まらず、企ては未 遂に終わったという。

長禄の変によって自天王が弑し奉られたのが1457年、18歳の時であったから、この大 河内行宮での挙兵準備 の時は16歳、そして忠義王は10歳であった。そのような若い両宮を担ぎ上げた黒幕が いてのことだった ろうが、常住の行宮であった川上村、上北山村の南西80Kmもの場所での挙兵準備は、 紀伊半島 特に熊野などからの海路を確保して四国や瀬戸内海の水軍を味方につける作戦が有っ たもので、 この大河内行宮には1年3ヶ月間滞在していたという。がしかし、その作戦は海路を 狙っているという陽動作戦で、 実際は志半ばにして上北山の瀧川寺行宮と河野行宮に戻っている。

上写真は「後南朝史跡 大河内行宮址」と云われる場所で、大きな石碑が立ってい る。

行宮の前の道は行き止りとなっており、数軒の家が奥に有るだけである。

この地で挙兵したとは、かつては多くの家が建つ集落が有ったのか、人家は無くとも 山上の砦としての行宮で あったのかは、不明だ。 平地の殆ど無い山間に、普通乗用車なら4〜5台は駐車で きるスペースは貴重だ。

行宮址の下方には現在、大河内神社が鎮座しているが、その場所は現在は廃寺となっ ている大徳寺が有ったという。 大徳寺の創建は江戸期らしいから南朝皇胤の行宮の後の事だが、あるいは熊野修験者 の堂が元々あったの かもしれない。

駐車スペースは砦だったなら曲輪の跡、お寺なら堂が建っていた跡地かもしれない。 しかし本当に山深い、、、南朝の皇軍というより、むしろ山賊に近い存在だったのだ ろう。

若い両宮のやるせない無念さが思われ、目頭が熱くなった。


■ 忠義王(天皇)御陵 〜 番外;美作南朝 (岡山県津山市上村)


奈良県の川上村・上北山村に伝わる 後南朝史とは異なる後南朝の伝承が、岡山県に 有る。

「美作(後)南朝」といい、1332年の南北の合一後から最期は1709年に第九代の良懐 親王が没するまでで 数えるなら、 317年間も続いたことになる。

後亀山天皇の長男・小倉宮良泰(法名;聖承)の第四皇子である尊義(空因)は近江 の小椋 に潜伏中に、山名教清の武将難波紀伊守宗衡に迎えられて、美作初代天皇である、高 福天皇 となった。御所は植月庄北村に有り、周囲の地名を京にある名前に変えて世間をごま かし、 1443年に即位と共に天靖と改元した。

第二代天皇は高福天皇が還俗させた義有親王の皇子である尊雅天皇である。この天皇 は 植月御所内で暗殺され(長禄の変)、次に初代高福天皇の第二皇子の忠義王が即位し た。

忠義王(天皇)は応仁の乱の文明3(1471)年8月26日に、西天皇として山名宗全に推 載されて 京の安山院に入っている。しかし文明6(1474)年、応仁の乱が終わると、忠義天皇 は 植月御所に戻り、皇子の尊朝親王に世を譲り、隠居された。崩御は1480年のこととさ れている。

このように忠義王に関しては正史とも偽史とも分からない、別の伝承がある。


■ 参考書籍 ( 南朝皇胤の系譜は書物によって諸説有るので、頭が混乱する。)


『歴史読本』検証 後南朝秘録、 2007年07月号;新人物往来社
『沈黙する伝承 川上村における南朝皇胤追慕』増田隆;あをによし文庫
『南帝由来考 後南朝秘史』中谷順一
『美作天皇記』原三正;おかやま同郷社


上写真;添付写真の論文について。
「忠義王」という存在を疑問視した、重要な論文だ。

【「色川文書」所収の忠義王文書に関する一考察 受容過程を中心に】
呉座勇一氏;神奈川大学・日本常民文化研究所
2021年03月26日発行 調査報告(参考文献含め、全 15ページ)

抄録をコピペさせて頂く ↓
「色川文書は、那智山西方の山間部の色川郷(現在の和歌山県那智勝浦町色川地区) を拠点とした熊野水軍 色川氏に関わる計八通の文書群である。近代から現代に かけて、色川文書の中で最も注目されてきたのは、忠義王発給文書である。
忠義王は長禄の変によって吉野で命を落とした南朝の末裔とみなされ、彼の発給文書 は 貴重・稀少な後南朝文書として関心を集めてきた。一方で同文書は、様式の不自然さ から、 後世の偽作ではないかと疑われてもきた。
本稿では、真偽に関する議論には深入りせず、同文書が近世の地域社会において どのように受容されたか、また近世の後南朝史研究でいかに扱われたかを解明した。

同文書を後世の偽作と仮定すると、その作成者は忠義王を長禄の変の被害者と認識し て いなかったと考えられる。
後南朝の嫡流とされる自天王の文書ではなく、彼の弟とされる忠義王の文書が作られ た 不自然さは、文書作成時には忠義王が弟宮と位置づけられていなかったと想定する ことで解消される。 
また奥吉野には南朝関連史跡は存在したが、江戸前期には後南朝関連史跡は未成立 で、 忠義王の名を知る人もいなかった。吉野に忠義王文書が残っていないのは、このため である。
 ところが『大日本史』編纂のための水戸藩の史料採訪が、熊野に残る忠義王文書 と、 かつて吉野で起こった長禄の変を結びつけた。吉野郡川上郷では自天王・忠義王の位 牌が 作られ、長禄の変で命を落とした二皇子として両人の名前が川上郷で浸透していく。
南朝関連史跡は後南朝関連史跡へと改変された。川上郷が両人に関わる由緒書や旧記 を 多数作成して先祖の後南朝への忠節を喧伝した結果、後南朝伝説は外部に拡散されて いった。これらの伝説は国学者が編んだ後南朝史に採り入れられることで信頼性と 権威を獲得し、近代以降の後南朝研究の前提となった。」
(以上)

ショッキングな内容だ!
忠義王を実在の親王と思い、考えそして史跡巡りも行ってきたが、上記の論文では熊 野で 作られた偽書を現場であるはずの川上村が逆輸入し、後南朝史を創作したというの だ。
同論文では、江戸時代に行われた調査において最初は忠義王の名前さえ無く 川上村 の 史跡は後醍醐天皇の第七皇子の史跡と思われていた記述が、史書が新しくなるに従 がって やがて川上村の史跡が「長禄の変」で殺害された親王のうち二の宮が忠義王という名 前 であった、とされていく様子が記載されている。
しかし同論文を読むと、疑問と云うかツッコみ処も存在する。江戸時代初期の川上村 では 「長禄の変」で殺害された皇子が後南朝の一の宮、二の宮という認識が無かったかも しれないが、「長禄の変」の首謀者側による『上月文書』などには川上村での襲撃の 様子が 記載されているのだ。この事実に、この論文は触れていないのがおかしい。
たしかに二の宮の名前が忠義王と名乗ったかは『上月記』にも無いかもしれないが、 「長禄の変」が実際に川上村で起こったことは、史実であろう。

最近、偽書とか偽史という点に注視しているが、まさか 忠義王に関して、その疑い が出て くるとは さすがにショックだ。
この論文に書かれたことを念頭に置くと、川上村における後南朝史がどのように変 わって 見えて来るか、再考の必要が有るようだ。

さて、その問題視される「色川文書」とは、上記に UP済みの「大河内行宮」に関連 した 文書なのだ。
その文書とは 享徳4(1455)年に 発給された 忠義王令旨 である。
「龍孫鳳輦已幸大河内之行宮也、早参錦幡下 (中略) 天気之趣如此矣 (以下 略)」
とあるように、「大河内行宮に南朝の後裔が移ったから色川郷の者たちは馳せ参じて 軍功をあげよ」という軍勢催促状である。
しかしこの令旨の様式に様々な怪しげな点が有るという。
中世でほとんど使われない「錦幡」という言葉や「天気之趣如此矣」という表現も殆 ど無いという。
熊野に「忠義王」という名の発給文書が残っていながらも、本拠地では その名前の 文書が 残っていないのも疑問だという。
「忠義王」なる名前が、江戸時代に後南朝時代の皇胤として創造されたのなら、この 呉座勇一氏 の論文は後南朝史を揺るがす大事件である。
「色川文書」が偽文書なら、この添付写真の後南朝史蹟も偽蹟になってしま う、、、。
まったくもって史蹟探索も、スリリングなものだ。。。


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Last Updated  2022-07-12