ドイツ語圏
No.K-1-2 作曲家 リヒャルト・ワーグナー 「タンホイザー」(ヴァルトブルク、アイゼナッハ)2014/2015年
Nr.K-1-2 Der Komponist Richard Wagner Tannhäuser ( Wartburg, Eisenach) im Jahre 2014/2015

上写真は ワーグナー胸像とLP盤(1962年バイロイト音楽祭、サバリッシュ指揮)の『タンホイザー』の Box ジャケット写真。
LP は 1983(昭和58)年に購入。

★ワーグナー作曲オペラ「タンホイザー」ゆかりのアイゼナッハ(Eisenach)に有るヴァルトブルク(Wartburg)を撮影してきた。
「タンホイザー」の舞台進行に相当するような写真を並べてUPしてみたが、ワーグナー自身がそこまで詳細な場所を写実化してオペラにしたわけではないことを、お断りしておく。

上写真;ワーグナーも見たであろう風景。 アイゼナッハ(Eisenach)のヴァルトブルク(Wartburg)。
リヒャルト・ワーグナーは1842年5月、パリを脱出してドレスデンに向かう途中、アイゼナッハに立ち寄った。そしてヴァルトブルク城を眺めて「タンホイザー」の内容になる逸話を知り、オペラ化への刺激を得る。フランスからドイツへ入国して伝説多いライン河を越え、そして歴史と神話に富むヴァルトブルクを見るという刺激は、ドレスデンへの馬車の中で速やかに舞台装置の構想を練るという形になっていった。
完成した「タンホイザー」は1845年10月19日にドレスデン宮廷歌劇場において、ワーグナー自身の指揮によって初演された。
ワーグナーはその後、1849年5月のドレスデン革命から逃亡の時にフランツ・リストと共に、そしてその後の1861・1862年にもヴァルトブルクを訪れている。

上写真;ヴァルトブルクの谷。「タンホイザー」第一幕と第三幕は、ヴァルトブルクの谷が舞台である。

上;山麓のアイゼナッハの街から山道を登り、城に辿り着く。山上の典型的な山城である。
日本の山城の場合もそうであるが、山上の城は合戦の時に籠る場所であって、日常的な住まいは山麓に有ったのではなかろうか。バルトブルクの築城時に絢爛な装飾のある大広間は作られなかったというが、まさに合戦に備えた城だからではないか。しかし1207年の歌合戦は、その呼称のとおり死をかけた合戦であるから、城で行われたのであろう。
1067年チューリンゲン方柏ルートヴィヒ・デア・シュプリンガーが建てたと云われる。
城内の見学可能部分の大部分は、19世紀の再建である。

上;城門をくぐって城内に入り、街を振り返る。

上;第一幕第四場ではヴァルトブルクの方柏ヘルマンが騎士たちと、タンホイザー帰郷に出会う。上写真はヴァルトブルク内にある「騎士の間」。

上写真;第二幕はヴァルトブルクの大広間が舞台である。1207年に実際に行われた歌合戦の間は小さく、ワーグナーそしてワーグナー没後にバイロイト音楽祭を担ったコジマも舞台をより広い「祝宴の間」に置き換えて演出した。添付写真は、その「祝宴の間」である。その「祝宴の間」も、そのままワーグナーは舞台装置にコピーすることはなかった。中世風の絢爛たる広間のイメージで、空間造形を行ったのである。
なお、この「祝宴の間」が1867年に修築が成った時、フランツ・リスト作曲のオラトリオ「聖エリザベートの聖徒物語」が演奏された。

上写真;タンホイザーを自己犠牲で救う純潔なる聖女、エリザベート。それはむろん歴史上に実在したエリザベート王女が仮託されたネーミングと存在である。
添付写真はヴァルトブルク内のエリザベートの壁画と「エリザベートの間」。

★エリザベート(エルジェーベト;Erzsebet, 1207年7月7日 - 1231年11月17日)は、ハンガリー王エンドレ2世とメラーノ公女ゲルトルードの娘で、4歳の時に政略結婚でテューリンゲンへ。チューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻となる。ドイツ名のエリーザベト(Elisabeth)でエリーザベト・フォン・ウンガルン(Elisabeth von Ungarn)、あるいはエリーザベト・フォン・テューリンゲン(Elisabeth von Thüringen)とも呼ばれている。
エリザベートは王女の時から貧しい民や病人に献身的に尽くし、夫の死後は再婚を断り、城を追われた後には一時は馬小屋に住まうなどして亡き夫に貞節を尽くした。没後に数々に奇跡が起こったことから、聖女として崇められる存在となっている。
そのような純潔にして一途な愛を貫く姿をワーグナーが放蕩男タンホイザーを救う聖女としてエリザベートの名前を用いたのは分かるような気がする。歴史的にも歌合戦は1207年にヴァルトブルクで行われたことが知られているが、その年代はエリザベートは生まれる前か生まれた年である。よって歌合戦の場に王女エリザベートが居たということはありえず、創作である。

上左;聖女エリザベートが病人を助けていた病院跡地。上右;ザンクト・エリザベート教会。

上;城からEisenach の街を見る。

上;第三幕、死を予感させる闇が迫る。街の灯りが夕星の煌めきのようである。

■(補足)聖エリザベートをテーマにした曲のCD(添付写真上左右);
フランツ・リスト作曲 オラトリオ「聖エリザベートの聖徒物語」
(Die Legende von der heiligen Elisabeth)

ドイツでは誰一人知らぬ人が居ないらしい歴史上の女性、エリザベート(エリーザベト・フォン・テューリンゲン
(Elisabeth von Thüringen)。って云っても日本人には馴染みが薄い。日本のカトリックでは聖エリザベート修道女として知られるらしいが。
そのエリザベートを扱った曲のCD はヴァイマールのシュターツオーパーが演奏した盤が唯一で、演奏者の選択の余地無し。
演奏時間が133分33秒もある大曲だ。6部に分かれ、エリザベートがヴァルトブルクに到着してから死までを扱っている。オラトリオということだが、曲を聴く限りオペラのようだ。演奏会形式のオペラというイメージで、リストは本当はオペラを
狙っていたのではないかと思わせる。曲は劇的あるいは華麗でもあるが、若干つかみどころの無いのはエリザベートという女性を殆ど知らないからだろうか。
添付写真下左右は、Wartburg 入場券とカメラ撮影券(フラッシュ禁止)。


■ アイゼナッハのロイター・ワーグナー博物館 Reuter-Wagner-Museum
又の名を、チューリンゲン・ムゼウム、ロイター・ヴィラ(Thüringen Museum, Reuter-Villa)

上3枚;博物館の遠景。展示物のワーグナーの右手の型。そして直筆手紙。1883年1月1日にアントン・ザイドルに宛てた手紙だ。
ところで「タンホイザー」ゆかりの地にワーグナーの博物館が有るのが当然のように思えるが、たまたまの偶然の産物のようだ。オーストリアのヴィーンに ニコラウス・エスターラインというワーグナー収集家が居た。ワーグナーの死後の1886年にエスターラインはワーグナーの資料館を建てることを遺族に申し出るも、断られた。エスターラインはアイゼナッハの近郊に住んでいたシラー財団のヨーゼフ・キュルシュナ‐と知り合いだったので、事情を話した。アイゼナッハに住んでいたフリッツ・ロイターという詩人が居て、死後に住居をシラー財団に寄付することになっていて、寄付されたシラー財団はアイゼナッハ市に更に寄贈した。キュルシュナ‐がエスターラインとアイゼナッハ市の仲介を取り、そのロイターの住居跡にエスターラインが収集したワーグナー・コレクションを展示することとなった。 以上がロイター・ワーグナー博物館開設の経緯である(参考;塩山「ワーグナー紀行」)。
建物は一階がワーグナー展示室、二階はロイターの住居として保存展示されている。


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