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No.K-1-5 作曲家 リヒャルト・ワーグナー  ルツェルン 2015年
Nr.K-1-5 Der Komponist Richard Wagner Luzern , Photo im Jahre 2015

■ 2015年5月2日 撮影、 スイス・ルツェルン

Richard Wagner =ヴァーグナー(ワーグナー)が die Schweiz (スイス) のLuzern (ルツェルン)に滞在した期間は、特に現在 Das Museum in Luzern(ワーグナー博物館)として公開されている旧宅に限って云えば、1866年から1872年の6年間ということになる。

しかしルツェルンとワーグナーの関係はそれだけではない。まるで旅がらすのように引っ越しが多かったワーグナー、どこで何時どのようなことを成したのか、簡単ではあるが整理しておかないと混乱してしまう。

ルツェルンでのワーグナーを、私的に時系列で列記し整理してみたい。

1850年8月28日、前年のドレスデン革命でお尋ね者となったワーグナーは、ボルドーやパリなどに滞在後、チューリッヒに住む(1849年)。そこからルツェルンに来て、ホテル・シュヴァイツァーホフに滞在した。第一回目のルツェルン来訪である。

1854年7月、チューリッヒのエッシャーハウスに滞在中、ジッテンでの音楽祭の用でルツェルンに寄った。

1858年5月、滞在していたヴェネチアからの帰路、ヴァイマールの大公との会見にために、3度目のルツェルンに寄る。

1859年3月29日〜9月7日; マチルデ・ヴェーゼンドンクとの不倫が発覚し、チューリッヒを脱出(1858年8月17日)してヴェネチアへ。

ヴェネチアでは自由解放運動に巻き込まれて、8か月の滞在後にルツェルンに移動。1859年3月29日から9月7日まで、ルツェルンのホテル・シュヴァイツァーホフに滞在。この期間に8月6日、『トリスタンとイゾルデ』の総譜完成。

シュヴァイツァーホフでの滞在後は、パリやウィーンで滞在。1864年ルートヴィヒ2世に拝謁、ミュンヒェンに住む。

コジマとの関係が生まれたのは1863年11月28日のベルリンでの馬車で二人の遠乗りと云われる。ルートヴィヒ2世の庇護を受ける半年前のことである。

1866年3月30日、コジマとのスキャンダルでミュンヒェンを脱出したリヒャルトとコジマ・フォン・ビューローは一端、ルツェルンのホテル・シュヴァイツアーホフに投宿。フィアヴァルトシュテテル湖(四森州湖)の船上から見かけたTribschen (トリプシェン)の家が気に入り、所有者の陸軍中佐ヴァルター・アム・リンと賃貸契約を結んだ。

1866年4月15日にリヒャルトが、5月12日にコジマが入居した。ハンス・フォン・ビューローとの間の娘・ダニエラとブレンディーヌそして1865年にリヒャルトとの間に生まれた娘・イゾルデも一緒の生活が始まった。

1866年4月15日〜1872年4月22日が、通称「Triebschen (トリープシェン)」時代である。

所在地は Luzern の Tribschen (トリプシェン)であるが、ワーグナーは自らが逃亡生活を繰り返していることを洒落て、

Trieb(追放)という字をあてて「Triebschen (トリープシェン)」と呼び、「追われた身の行きつく所」という意味を込めたという。ただ、、、辞書を見ると Trieb には「衝動・欲求・性欲」などの意味があるようだ。それもワーグナーらしいかと思う。

1867年2月17日、リヒャルトとコジマの間に娘・エファが生まれる。

1867年10月24日、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の総譜が完成した。

1868年6月21日、ミュンヒェンで『マイスタージンガー』が初演された。

1869年6月6日、息子ジークフリートがコジマ・フォン・ビューローとの間に生まれる。『ジークフリート』第2幕3幕の作曲に取り組む。

1869年9月22日、ミュンヒェンでルートヴィヒ2世の希望で『ラインの黄金』が初演された。リヒャルトの意に反した上演のため、非公式扱いである。

1869年頃から、フリードリヒ・ニーチェがトリープシェンに度々来訪するようになる。ワーグナーがトリープシェンを去るまでの3年間にニーチェは33回もトリープシェンを訪れている。

1870年6月26日、ミュンヘンで『ヴァルキューレ』の非公式初演。

1870年8月25日、ルツェルンのマテウス教会で、やっとコジマと結婚式をあげた。

1870年12月25日、コジマの誕生日の朝、トリープシェンの階段で『ジークフリートの牧歌』が演奏された。

1871年4月16日〜20日、バイロイト視察。

1871年 『ジークフリート』総譜完成。

1872年4月22日、「トリープシェン」に別れを告げて、バイロイトへ引っ越し。


上写真2枚;Richard Wagner が度々滞在した Hotel Schweizerhof Luzern の建物(左側)。そしてそこからの湖の眺め。
ワーグナーも眺めた景色だ。 上写真、右側の方の二つの塔は、Hofkirche (ホーフ教会)。

バス通りから森の小道を抜けて歩くこと約5分、トリープシェンと呼ばれた旧宅が見えてきた。「ワーグナーさん、日本から会いに来ましたョ。」 建物の背後には、ピラトゥス山が見える。

上写真;元サロン。右側のグランドピアノは、ヴィニフレッド・ワーグナーらからの特別出品。パリ・ピアノ工場主ピエール・エラルド夫人からワーグナーに寄贈された。1853年5月3日、チューリッヒの家に運ばれてから、ワーグナーの行くところ各地をお供した。

上写真;扉の左奥がワーグナーの仕事部屋。マイスタージンガーの部屋とも呼ばれた。扉右奥が元食堂になる。

上写真2枚;サロンからの眺めと、サロンの外壁窓。

上写真;1870年12月25日の朝、密かに練習した16名のチューリッヒ歌劇場の団員が、コジマ33歳の誕生日にワーグナー指揮の元、「トリープシェンの牧歌(ジークフリートの牧歌)」を演奏し、誕生日を祝った。その階段だ。譜面台が置かれているが、私の撮影した場所から上へは立ち入り禁止となっていた。よってコジマの寝室は見ることができない。

上左写真;ワーグナーのデスマスク。これまでのワーグナー探訪で、ドレスデン近郊のグラウパ、アイゼナッハの各ワーグナー博物館でもデスマスクをみた。実はデスマスクのオリジナルが幾つあるか疑問になっているそうだ。ただ、ここのデスマスクは表情に張りがあり、死後時間経過が短い内に型取りされた印象が有る。グラウパとアイゼナッハは瓜二つだが、表情に弛緩が表れており、死後の経過が長く思われるがいかがだろうか、、、。
上右はニーチェ(1844〜1900)のデスマスク。リヒャルトをコジマを、そしてトリープシェンを愛していた哲学者がこの地にデスマスクとして回帰している。

上写真;トリープシェン玄関前の、ワーグナー胸像。

上写真2枚;トリープシェンのワーグナー旧宅前からのアルプスの眺め。すぐ近くに Tribschenという地名の船着き場がある。

上写真;Vierwaldschtetter (四森洲湖)に注ぐロイス河に架かるカぺル橋。周辺には屋台が並ぶ。

上写真;書籍はトリープシェンで買った「 Richard Wagner Seine zeit in Luzern 」。

DVDは日本で通販で買った、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(2013年ザルツブルク音楽祭収録)。この曲は、ここトリープシェンで完成した。

ルツェルン駅からトリープシェンへはスマホのナビでは2.1Km、徒歩28分と出た。往復4kmを歩くのは、チューリッヒへ移動してからも歩いたり翌日の蒸気機関車撮影でも歩くことを思えば、負担を減らしたかった。タクシーという選択肢も有るだろうが、復路にまた呼ぶのも面倒だ。やっぱり公共交通手段だ。バスの7番系統でWarteggという停車所が直近なので、利用した。チケットの自販機は紙幣が使えない。コインの手持ちが無かったが、普通のクレジットカードで買えた。カードの一部分が自販機から顔を出したままの状態でなく、全部機械の中に入り込んでしまうので一瞬ヒヤリとするが問題ない。

午前中はルツェルン、午後はチューリッヒでワーグナー足跡探訪と計画を立てていたため、ゆっくり展示品も見れなかった。貴重な展示品の数々、そして湖に面した静かな環境。ワーグナーを偲びに再訪したい。

余談になるが、、、スイスから遠く離れた日本の京、新選組が池田屋に討幕浪士を急襲したのは1864年。土方歳三が函館で戦死して戊辰戦争が集結したのが1869年。ワーグナーのスイス時代である。遠い昔のことなのだろうか、、、。


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