No.K-1-8 作曲家 リヒャルト・ワーグナー フランツ・リスト と; 2015年 撮影
Nr.K-1-8 Der Komponist Richard Wagner , mit Franz Listz in Bayreuth , Photo im Jahre 2015 |
■ 2015年5月4日撮影、ドイツ バイロイト(バイエルン州オーバーフランケン行政管区) |
左側写真は、作曲家でピアニスト、そしてリヒャルト・ワーグナーの知人にして晩年は義理の父となったフランツ・リストがワーグナーの曲をピアノ編曲した CD である( リスト ワーグナー・トランスクリプション集)。
前記で“知人”と書いたが、はたして“友人”と書けるほどお互いが心底まで親しかったか不明だ。たしかにリストとリヒャルトの交友は長い。ワーグナーがリストに出会ったのは1840年、パリにおいてである。ワーグナーはリガから海路逃亡し、ロンドンでの短期滞在後にパリに移った。パリでの滞在は1840年から42年の間である。その期間、ワーグナーは『リエンツィ』を完成し、総譜をドレスデン宮廷劇場の支配人に送ったりしていた。その作品が認められ、ワーグナーはドレスデンに向かう。『リエンツィ』はドレスデンで1842年10月20に初演され、大成功を収めた。ただし次作の『オランダ人』は1843年1月2日に初演されるも不評だった。しかし同年の2月2日にはドレスデン宮廷歌劇場の楽長に就任した。パリでの赤貧時代とは境遇の変わった1844年、リストはドレスデンにワーグナーを訪ね再会している。リストの生涯は三期に分類されることがある。第一期は1830〜1850年頃のピアニスト時代。第二期は1850〜1860年頃のヴァイマール作曲時代、そして1860〜没年(1886)の晩年である。第二期にあたる1860年、ヴァイマールの宮廷楽長となっていたリストは、ワーグナーのロマンティッシェオーパー『ローエングリン』を初演した。リストはピアニスト時代の1837年12月25日に恋仲のマリー・ダグーとの間にコジマが生まれた。リストの弟子であったハンス・フォン・ビューローと彼女が結婚したのは1857年のことであった。二人が新婚旅行に選んだのは、二人が共に崇拝するリヒャルト・ワーグナーが住むチューリッヒであった。ここでリヒャルト、ミンナ、マチルデ、コジマ、ハンス、リストという複雑な人間関係が絡みつつあった。1863年、ミュンヒェンにおいてリヒャルトとコジマの間は決定的となるが、ダブル不倫のままであった。やがてミンナの没後にコジマも離婚して再婚するが、父親のフランツ・リストの心境は複雑で心底祝福していたか疑問である。だが所謂“ くされ縁 ”って言ったら語弊があるかもしれないが、リヒャルトとリストの交友はリヒャルト没直前まで続いた。それだけでなく未亡人となった我が子コジマが取り仕切るバイロイト祝祭に、リストは駆け付けている。1886年、この年はコジマと前夫のハンス・フォン・ビューローとの間の娘ダニエラの結婚式もあって、第五回祝祭の時にバイロイトを訪れた。しかし『トリスタンとイゾルデ』観劇を最後に風邪がもとで気道閉塞と心筋梗塞を起こしてワーグナーの聖地バイロイトで没した。このようにリストの生涯はワーグナーとの交友なしには語れない。 Franz Listz (1811年10月22日〜1886年7月31日、享年74) |
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上左右写真;Bayreuth Stadtfriedhof (バイロイト市立墓地)に、リストは眠る。廟の中に墓石がある。 |
■ 2015年9月19日 撮影
2015年5月4日にバイロイトを訪れた時には館内に入らなかったが、9月訪問時は館内を見学した。館内の中央には I bach Klavier がデンと鎮座していた。 |
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Last Updated 2016-04-08