撮影場所&日;長野県下伊那郡天龍村坂部・大森山諏訪神社、平成18(2006)年1月4,5日 撮影機材;Nikon D70+SIGMA10−20mm、 D70s+SIGMA18−50mm |
坂部の冬祭りは、お神楽撮影に行く度に同好の士の話題に上がり興味がありましたが、この度はじめて訪問することができました。 名古屋からは中央道の飯田ICを出て南信濃村を経由してアクセスすると、国道153号線を使った場合の大雪の平谷峠越えがなく、スムースに3時間で到着しました。 (下記は、二書を参考にしました。詳細は書籍をご参照下さい。) 坂部(当時は左閑辺)の左善阿閑が治承2(1178)年に鎮守神として諏訪神社を祀ったが、延文4(1359)年、現在の大森山に還座した。当初は土民によって細々と祀られていたのが還座されたのは、その7年前の文安元年(1352)年に富山村河内多田家に寄留していた熊谷貞直が、ここを開郷したことに関係していよう。左閑辺において最初にお神楽が奉納されたのは、正長元年(1428)、時の郷主熊谷直常の時であったという。当時の左閑辺や隣の富山村は、室町幕府の太守の支配も及ばぬ貢納の義務も有名無実というような状況であったらしい。すなわち熊谷氏や多田氏のような土豪による郷社会であったようです。そのような閉じられた世界と思われる中でありながら、平安時代から鎌倉時代にかけて、奥三河から諏訪大社への天竜川に沿った修験者の回峰ルートの開発と往来が活発であったことは、違う一面を示しています。やがて室町時代になると熊野信仰の修験道の衰退とともに、その修験者の開発したルートに移行するかのごとく伊勢の御師(御祈祷師)による伊勢信仰が流入するようになりました。かれら御師は、伊勢流の神楽をも持ち込み、村に寄留するとそこで祭祀を司るなど大きな影響を持ちました。左閑辺には青谷源太夫という名前が記録されているそうです。 《以上の参考文献・・・山崎一司著【隠れ里の祭り】富山村教育委員会》
さて、そして現在は左閑辺ではなく坂部と称していますが、そこでは大きな祭りが年に五度あるそうです。 《以上の参考文献・・・井上隆弘著【霜月神楽の祝祭学】岩田書院》 |
上左写真【御練り】;末社下の森火の王社から神輿が出発して渡御してくる。お囃子が漆黒の闇から近づいてくるのが段々と大きく聞こえてくるのは、感動的です。残雪の急な斜面の参道を登ってきます。 上右写真【宿入れ】、諏訪神社の境内に神輿が到着すると、伊勢音頭により氏子が願人踊りを賑やかに奉納します。氏子が円陣を組んで舞う境内には、巨大な松明が燃えていました。 |
上左右【花の舞】;左は「二座の舞」という。この呼称は、舞の空間分類により、舞処の広いスペースが表、そして釜の本殿側を御殿といい、その二箇所で分かれての舞が「二座の舞」という(上記、井上氏著書)。採り物による舞の分類ではない。 |
上写真【本舞】;本舞は、湯立ての場を清める舞で、上の写真は上衣の舞です。上衣は、大変に神聖なものであり、祭祀者としてのシンボルであり、洗濯も男性か老女によるとされているそうです。空間的には「二座の舞」です。 |
上写真【本舞】;本舞で、採り物は刀です。 |
上左右写真、【湯立】 |
上写真【たい切り面】;神子が振り回す松明を、鬼が鉞を振るって打ちます。 |
上写真【たい切り面】 |
上左【天公鬼面と青公鬼面】、上右【青公鬼面】;禰宜との問答の後に上衣を羽織ります。上記の井上氏は、花祭の榊鬼が禰宜との問答に敗れてからそれまでの荒ぶる霊格から守護霊へと転生する、と記載されてます。坂部の鬼が神聖なる上衣を羽織ることは、花祭の榊鬼と同様に鬼が守護霊に転生する具象化なのでしょうか。 |
上左写真【水の王神】、上右【火の王神】;井上氏は、坂部の冬祭の面形の舞が、火の王の眷属で占められていることから、火の神が村の守護神として鎮められている重要性を指摘されてます。尚、「花の舞」「海道下り」と「魚釣り」は、1953年以降に臨時祭の『お潔め祭り』から冬祭りに加わった舞ということです。 |
上左写真【翁】、上右【面形送り】;面は下の森末社へ送り戻されます。参道を下っていく列に、物悲しさが漂います、、、。 |
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Last Updated 2009-12-29