撮影場所&日;静岡県浜松市水窪町所能、観音堂、平成18年2月15、16日(毎年旧暦1月18日) 撮影機材;Nikon D70 +SIGMA18−50mmF2.8、Nikon D70s+SIGMA10−20mmF4-5.6
■地能 |
《現地情報》駐車場・・・あり、売店屋台・・・あり、仮眠所・・・なし 《参考文献》 【西浦の田楽】水窪町教育委員会 【能 現行謡曲解題(全)】松田存;錦正社 【能楽ハンドブック】戸井田道三、小林保治;三省堂 |
上左【御酒上げ】(午後8時13分)、上右【庭上がり】(午後9時11分)
■はね能 地能という予祝性の強い舞が終了すると、はね能という演劇性の強い演目が始まります。はね能の演目の題名は、現在の五流(観世・宝生・金剛・金春・喜多)能に存在するものが多いです。例えば西浦田楽はね能の〈高砂〉は五流能の〔高砂〕、〈しょうじょう〉は〔猩々〕、〈くらま〉は〔鞍馬天狗〕、〈野々宮〉は〔野宮〕、〈さおひめ〉は〔佐保山〕などです。〈梅花〉のように五流には無い題名もありますが、梅花がキーワードとなる源平物で〔箙〕という能がありますから、それに相当するかもしれませんが、再見して確認しなくてはなりません。 はね能の各曲の舞は、五流能の風体、ハタラキそして運びも全く異なります。五流に伝わる能と同一曲名を持ちながら別の曲となっており、どのように西浦田楽に伝わったのか興味深々です。既にUPしてあります島根県の佐陀神能は、佐侘神社の神官さんが江戸時代に都で能を見て学び、それを地元でお神楽に導入したと云われているだけあって、前後二場形式で演じるなど、僅かながらも五流派の能の類似性が見られますが、西浦の能には見られません。類似性があるとすれば、謡が同じようでありましたが、節は五流のどの流派とも違います。弱吟はなく、強吟のようですが、節は単一的です。舞は「はね能」の語源は不明ですが、そのもの跳ねる舞がメインですが、内容は五流派の翔(カケリ)に相当するシーンが殆どです。このことから、はね能が余興的に演じられたという推測をするのに十分なことです。西浦はね能で演じられる曲の同名曲の作者は大和猿楽の世阿弥(1363−1443)はじめ、金春禅竹(1405−1470)や左阿弥安清(1381−1485)ら、室町時代中期の作者ばかりです。世阿弥の頃には田楽の能と猿楽の能の芸態にさほど違いは無かったそうですから、もし猿楽座の興隆で都を落ちた田楽座員が地方に活路を見出したのなら、もう少し現在の五流派の能楽に類似性が見られてもよいのではないかと思います。このことから西浦田楽はね能は、都などで申楽(世阿弥は、このように呼びました)を見聞きした修験者、あるいは大道芸人のような人々が申楽の謡本のみをテキストとして持参して始めたのが最初ではないかとも思いました。むろん当初の姿をそのまま伝承してるわけではないでしょうから、元は五流能に類似していたのがディフォルメされた可能性も有るでしょうけど。なにぶん勉強不足です、、能楽と西浦田楽の類似性と差異を歴史的、あるいは能の所作から記載した文献がありましたら、どうぞお教え下さい。 はね能の【高砂】が済む頃から、【水のう】が終わるまで雨は止んでました。 |
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Last Updated 2009-12-29