撮影場所&日;長野県飯田市南信濃中立・稲荷神社、平成19(2007)年12月1日 撮影機材;Nikon D80+VR18-200mm、D70s+SIGMA10-20mm 現地情報;毎年12月1日、八日市場・日月神社と隔年交互開催、正午〜午後11時半 |
毎年12月1日開催だが今年は土曜日になったので、午前中仕事後に駆けつけた。南信濃の他の側面の楽しみである「かぐらの湯」と山肉料理を楽しんだ後、神社へ向かったのは午後5時過ぎており、辺りは真っ暗であった。国道152号線から山間へ乗り入れるのだが、段々と山深くなってくるのが判る。当然ながら車は前方しかライトを照らさないから、急坂のヘアピンカーブではライトが当たらない先がどうなっているか判らない真っ暗の怖さというのは、なかなか運転していても経験しえないことである。この先に本当に集落が有るのか不安に成りかけた頃、前方に灯りが見えてきた。たどり着くと、お囃子が聴こえてきた。漆黒の闇の中で、そこだけ活気に満ちた空間があるのは、安堵と同時に不思議さを感じる。拝殿に入ると、舞は『四つ舞』の最中であったから、既に湯立が繰り返される『先湯』は終わっていた。 やがて『中祓い』で湯立において降臨された神々・諸霊に返っていただき、霜月まつりの後半が始まる。やがて始まる剣を持った舞人四人による『襷の舞』は、元和3(1617)年に滅亡した武士である遠山一族の死霊を慰めるための舞であるといい伝えられている。剣による採り物舞が死霊鎮めの舞であると考えられていたのである。そして面形舞には、滅亡した遠山一族の武将や姫様が登場していると云われる。このことから霜月まつりは、死霊祭であると一部では云われているようである。しかし祭は吉田流とも云われる両部神道の神仏混淆の流儀に伊勢の湯立が混ざって行われていた神事に、後に死霊祭が加わったと考えられるのが通説のようである。途中で『神返し』が有って、やがて面形舞が始まる形式は、やはり全体からみても二部構成であることが明白である。その面形舞で、他の場所では「子安様」と呼ばれる赤子の人形を持った女面が登場する。これは遠山氏の姫の死霊面だと云われるが、ここ中立では「大神」として登場し、まるで天照大御神を彷彿とするネーミングであることが、逆に裏に隠された怨霊鎮めを想像させてしまう。だが、面がお神楽に登場するのは江戸時代中期頃というのも定説であるから、仮に霜月まつりでも面がその頃に遠山氏に関連付けて導入されたとしたら、なぜ遠山氏が滅亡して百年以上経過してから死霊鎮めを必要としたのか、その方が気になってしまう。 ともあれ途中から見物したが、湯立も四面に湯切りも拝見でき、充分に満足して稲荷神社を後にした。
《参考文献》 |
上写真6枚;湯木は依代となって神々が降臨する。湯木を釜の湯に浸すことによって、神様が湯を召し上がる。湯立の作法の前に湯木を持って舞うのは、清めの舞である。 |
上左写真;正一位稲荷神社、上右写真;大神 |
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上左右写真;稲荷神の眷属神であるお狐様 |
上写真;小天狗(水の王)が一の釜で湯切りをする。湯切りは、面形舞の一番最初の大天狗(火の王)と天伯の直前の小天狗が行う。 |
上左右写真;天伯 |
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Last Updated 2009-12-29