撮影場所&日;宮崎県西諸県郡高原町、平成20(2008)年12月13、14日 撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm、D80+SIGMA10-20mm 現地情報;お神楽は19時頃から翌朝7時頃まで。駐車場は周辺。屋台など有り。 土曜日、午前中の仕事後に夕刻のフライトで熊本まで飛び、レンタカーで祓川神楽の撮影に向かった。熊本空港着が19時20分で、レンタカーを借りてから祓川神楽の神楽殿御講屋に着いたのは21時20分であった。お神楽は午後7時から始まっているから、既に演目も途中である。しかし翌朝7時までの長丁場であるから、遅れたことは気にせずに撮影に入る。当日は雨であったので室内だと思ったが、最近は晴れても野外でなく、神楽殿内を御講屋として行っているようだ。 まず御講屋(神庭)で目を惹いたのは、四方に建つ鳥居と中央の雲とか天蓋に相当するヤタンバン(八咫之盤)である。直径三尺ほどのヤタンバンからは、天照大御神と、薩摩藩の家紋そして“東”などが刻まれている。 ここは霧島山東麓に位置しており、お神楽としては霧島神楽と総称されている。夜神楽などと徹夜のお神楽を呼ぶことがあるが、この地でそのように呼ぶのはコマーシャリズムによって最近のことであり、元々は神舞(かんめ)とか神事(かんこつ)と呼んでいた。祓川神楽は霧島東神社社家によって伝承されてきたお神楽で、その神社の旧称は霧島東御在所両所権現といっていた。この神社は薩摩藩の信仰の篤かった霧島神宮を中心として霧島六社(六所)権現の山岳修験の道場の一角であった。ちなみに西御在所が現在の霧島神宮である。山岳修験の道場でもある霧島山岳宗教の中心である現霧島神宮の主祭神は、天孫邇邇芸命(又はヒコホノ二二ギノミコト等)である。この御祭神の名前は、“穂のにぎにぎしく生い茂っている様”を現しているとされており、穀霊と考えられる。祓川神楽は修験者が己の験力の誇示をするかの如く荒舞も存在するし、御講屋の設定や採り物は鈴の替わりに錫杖を用いるなどから、修験者の影響が残っていると云われている。たしかにそうであるが、舞には農耕儀礼が強く感じられる曲が多いことも特筆すべきと感じた。かつての修験道の興隆時期の後、すなわち江戸時代中期の国学や復古神道の最盛期、そして民衆の間で伊勢講が盛んであった時期に記紀神話の影響などで多くが改変された可能性もある。特に第29代島津斎彬(NHK大河【篤姫】で、高橋英樹さんが演じましたね)は廃仏毀釈を徹底したから、さらに神道が強く入り込んだ可能性がある。その修験道と神道のミックスした姿を、祓川神楽で見ることができる。舞様は五方を祓い、反閇を踏む。これは陰陽道の影響も大きい。御講屋の四方に建つ鳥居は、法殊門(春、万物出生)、福徳門(夏、万物長生)、延命門(秋、万物稔り命をたすく)、成就門(冬、万物成就)といい、山伏がもたらした思想と云われている。そして中央には天照大御神の名前と鏡(太陽)がヤタンバンから下がっている。修験道の色が完全に払拭されないままに、神道色に染まっているお神楽である。特に現在の高原町は神武天皇の御生誕地とも云われ、記紀にゆかりの土地でもある。そのような土地でのお神楽、誠に興味深いではないか。 《参考文献》 【すぐわかる日本の神社】井上順孝監修;東京美術、P.106〜109 【宮崎の神楽】山口保明;みやざき文庫、P.289〜297 |
上左写真;高幣、上右写真;地割 |
上左右写真;金山 |
上写真3枚;剣 |
上写真2枚;十二人剣 |
上写真;杵舞 |
上左写真;長刀、上右写真;納(御花神髄) |
上写真;三笠 |
上写真;住吉 |
上写真;龍蔵 |
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Last Updated 2009-12-29