撮影場所&日;広島市安佐南区沼田町阿戸、平成21(2009)年10月10日 撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm 広島市安佐南区沼田町の阿刀明神社で、安芸十二神祇の「阿刀神楽」が奉納されたので、拝観・撮影してきた。 昨年から広島県のお神楽を幾つか拝見・撮影しているが、いづれも芸北神楽で かなりエンターテイメント化した戦後の新作の新舞が殆どであった。新舞ではない他の お神楽が知りたく、書籍(※1)を見ていて気になっていたのが、この阿刀神楽である。広島県には、芸北神楽だけでなく、安芸十二神祇と呼ばれる神楽が、広島市、廿日市市、大竹市にいくつか分布しているようである。安芸十二神祇でも詳細にはルーツから云って、水内川流域における白砂舞から発生した神楽と、八幡川流域や河愛川流域に広がった神楽とがある。いづれも天神七代・地神五代を合わせた十二を神楽の曲数として奉納するところから、十二神祇と呼ばれている。しかしながら、その内容はバリエーション豊富である。清め祓いの舞(湯立ての舞、煤掃きの舞)、記紀の舞(天の岩戸の舞、恵比寿の舞)、五行の舞(所務分けの舞)そして擬死再生(?)の関の舞、将軍 に分けられる。 阿刀神楽で伝承されている曲に、珍しい二曲がある。『関(世鬼)の舞』と『将軍(死に入り)』である。この特色ある曲について以下、私見で書いていこうと思う。 『関の舞』で、面をつけた異界の住人が持つ大きな杖は、現地のパンフレットによれば“ 死繁盛の杖 ”というそうである。死繁盛の杖 は、「この杖で四方を招けば万の宝も寄り来るなり。老いたる人の額をなでれば十七、八とも若やぐるなり」と舞詞で述べる。再生の呪力を持つ杖のようだが、であればその杖の字は、いつの頃か、本来の字から現在の字に替わったのではないかと思う。繁盛ではなく、灌頂ではないかと思うのである。立山布橋灌頂のような、擬死再生の極楽浄土の儀礼を思い浮かべる。それは何故かというと、続く『将軍』の舞に関連しているからである。添付写真の『将軍』の写真では、太夫(白)が持つ弓の間を将軍(赤)が潜り抜けている。弓で作った形は女性器を表し、そこを潜ることは出生を意味する。この『将軍』の舞では、舞っているうちに将軍がだんだんと神憑きとなって失神する。昔は託宣があったようだが、現在は形式だけになっているが、それはかつては死霊鎮めの浄土神楽ではなかったかと思うのである。その点、不勉強だから詳細が述べられないが、井上隆弘氏(※2)は、中国地方では近世前期まで法者と神子が冥途に迷っている死霊を連れ戻し神子に乗り移させて口寄せの浄土神楽があった、と述べられている。むろん井上氏が意図されるお神楽は安芸十二神祇ではないかもしれないが、曲の内容から、元は死霊鎮魂との関連が考えられてもいいのではなかろうか。 この『将軍の舞』は、『死に入り』とも呼ばれているが、舞いながら失神するからだとか単なる神憑きの託宣という解釈では、何故 “死に入り” なのか回答には不十分に思える。現在は託宣の形式だけを伝えているが、死霊鎮魂か神々の託宣であったか、興味深いところである。 尚、『関の舞』では荒平は、途中から“死繁盛の杖” を太夫の持っている“剣”に持ち替えて舞う。浄土への道を切り開く前に魔障を祓うのかもしれない。 ともあれ、誠に内容豊富で、しかも素晴らしく力強い舞ばかりで、往復1,000キロを走って撮影に行って良かったと思っている。 阿刀神楽の皆様にはお世話になりまして、感謝申し上げます。 《参考文献》 (※1)三村秦臣【広島の神楽探訪】(南々社) (※2)井上隆弘【死と再生の身体宇宙(年刊 芸能)】 |
上写真;【湯立ての舞】、拝殿で鼓の口開けに続いて、採物で舞う。男性二人の舞いだが、現在は湯立ては行われていない。湯竈を祓う舞のみが残った感じだ。添付写真は、男性二人の舞いの後で舞う少女巫女。戦後にでも加えられた舞だろう。 |
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上写真:【神降しの舞】、天蓋が上下に揺れながら動く。神様が降臨された様子を表す舞である。 |
上写真;【五刀の舞】、四刀を両手で持ち、口には小刀を咥えて舞う。武神の五刀の威力を称える舞。 |
上写真;【恵比寿舞】、短冊の付いた笹竹を振り回しながら舞う。 |
上写真;【荒神の舞】、激しい動きで舞殿を舞い周る。荒魂のスサぶる様子を表しているのかもしれない。 |
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上写真;【白湯の舞】、この曲と「薙刀の舞」「八つ花の舞」はワンセットのストーリー性があるようだ。王子らの財産分け(所務分け)を語りながらも、陰陽五行説を説く話である。舞には語りがなく、そのことは判り難いが。 |
上写真;【薙刀の舞】、九州の祓川神楽などでも見かけた薙刀を振り回す舞に類似である。この地で「武芸筆道」を指南していた難波一甫流の武術者・広島藩士でもある宇高宗助の指導で、柔術などの形が文化・天保(19世紀前半)に取り入れられて現在の神楽の姿になった、と云われる。祓川神楽などでは霧島修験道の影響も考えられるが、修験者が薙刀を振り回したとは考え難い。やはり武芸の技が入ったとも考えられよう。 |
上写真;【八つ花の舞】、四人の舞人がアクロバティックに刀を潜ったり飛んだりして舞う。出雲系神楽で、広く見られる舞であるが、武士の甲冑姿の装束が目を引く。 |
上左右写真;【関(世鬼・荒平)の舞】、上記メインキャプション参照下さい。 |
上写真3枚;【将軍(死に入り)】、上記メインキャプションをご参照下さい。 |
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Last Updated 2011-06-28