◎小町をどり
白峯神宮・七夕精大明神祭では午後二時半から祭典(山城舞楽奉舞あり)で、境内では午後三時頃から蹴鞠、そして午後四時半から小町おどりが奉納される。
「小町踊り」では17人程の5〜12歳くらいの少女が元禄時代の衣装姿で、小太鼓をバチで打ちシナをつくりながら、短冊の飾られた笹竹の周囲を踊りながら周る。
この踊りは白峯神宮さんのHPによると、「元来、奈良時代、宮中の行事として始まった陰暦七月七日夜の乞功奠(きこうでん・巧みになることを乞祈る祭り)の際、供え物として公卿等が詠んだ「和歌」を届ける時に、文使い(ふみづかい)のお供をしていた娘たちが、その道中で歌い舞った踊りが起源とされています。その後、これが民間で七夕の風習になり、特に女子が手芸と芸事の巧みなることを願う祭事として定着し、元禄の頃になりますと西陣界隈の乙女たちを熱狂させまして、あでやかな西陣織の着物を着飾って町々を歌をうたい、踊り歩いたのが始まりであるとされています。」ということである。
七夕は中国で、牽牛・織女の二星が農耕や養蚕・織物を司る星として裁縫上達のみならず、やがては詩歌や歌舞音曲の上達を願って巧み(巧)になることを乞い祀る乞功奠(きこうでん)と呼ぶ風習が元であった。これが日本に入ってくると、やがては祖先の精霊迎えの祓え行事や、田畑の収穫を祈念感謝する祭りが加わって、日本の七夕が生れた。五色の短冊に歌や字を書いてブラ下げて野菜を供えて技芸の上達を願い、終わったら竹を川に流すのは元来、7月15日のお盆に先立って穢れを流して物忌みに入る行事の名残である。多くの年間行事は大別すると、「祖先祭祀」「農耕儀礼」そして「祓禳の儀礼」に分けられる。そのうち七夕は「祓禳の儀礼」として、祖霊迎えに先立つ祓えに属するものである。
中世の宮中では七夕には、七にちなんで「七遊び(歌・鞠・碁・花札・貝合せ・楊弓・香)」や、七調子の管弦などを天皇や公家が楽しんだという。民衆が短冊に願い事や詩歌を書いて笹竹に吊るす習俗は、寺子屋の普及した江戸時代以降のことである。七夕に踊ったという『小町おどり』には遊興の局面が有ると同時に、本来は日本流七夕の本質である祖霊迎えのお盆の前に疫神や魔障を攘しておく玄武神社や今宮神社の『やすらい花(祭り) 』のような、
悪霊鎮送の念仏踊り的要素があるのではないかと思う。太鼓を持って踊るスタイルは、「やすらい花(祭り)」だけでなく、各地に分布している念仏・雨乞いの太鼓踊・鞨鼓踊を彷彿とさせるものである。ただ、遊興味が強くなっているから、念仏踊りの唱名を控え目にして太鼓踊りの太鼓のかしましさを太鼓を減らすことでより風流化したのが小歌踊りだそうだが、『小町おどり』もそれに属する踊りであろう。『小町踊り』に挿入される形で『織姫舞』が舞われるが、その部分は元々は無かったのではなかろうか。『小町踊り』は明治時代に途絶えたのが昭和37年に復元復活したそうだが、その復元時に『織姫舞』が新たに創作されて加わったのではないだろうか。『織姫舞』の存在で、現在では“星に願いを”的なロマンティックな部分がある。
雅で華やかな元禄衣装にお化粧までして踊る少女達は、微笑ましい。なれどかつては根底には、悪霊鎮送の怨霊調伏の目的が多少なりとも有ったのではないかというのが、アマ・カメラマンの私が撮影した感想である。
【日本の民俗宗教】宮家準、講談社学術文庫
【年中行事・儀礼事典】川口謙二、池田孝、池田政弘、東京美術
【日本の伝統芸能】本田安次、錦正社
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