撮影場所&日;三重県多気郡明和町有爾中有爾桜神社、平成19(2007)年7月15日 撮影機材;Nikon D70s+SIGMA10-20mm、D80+VR18-200mm 現地情報;祭りは午後1時より、駐車場・・・周辺 |
有爾中(うになか)の鞨鼓(かんこ)踊りは、その格好が独特である。頭には赤熊(しゃぐま)を被るが、これは白馬の真っ白な尾毛を一本縒りして円筒形に頭巾の上に一尺五寸立てる。また、顔面は二尺五寸垂らした赤熊で覆われている。頭巾の上には、巾六寸の紅絹布で巻く。上着は縞模様の筒袖上着で、腹部には白晒を巻き、その上に腰蓑を巻き、脚を覆い隠す。腹部には桶胴太鼓を固定して抱き、両手のバチで打ちながら踊る。これは「太鼓」でも「かっこ(鞨鼓)」でもなく、現地では「かんこ」と呼んでいる。 伊勢は、伊賀から滋賀や西美濃周辺に広がる“カンコ踊り(鞨鼓踊、太鼓踊)”の分布域の一部であるが、この有爾中のような独特なスタイルは、伊勢周辺のカンコ踊りのみで見ることができる。 では何故この格好が伊勢周辺でのみ見られるか、、、。能に【阿漕(あこぎ)】という、漁師が生前の妄執と死後の地獄の苦しみを舞う亡霊の曲がある。 その能の物語りであるが・・・伊勢の国「阿漕が浦」は、伊勢神宮へ献上する魚を捕る場所で、一般漁師は禁漁であった。そこで密漁して刑に処され、殺生を生業とすることからも地獄に堕ちた漁師の苦しみ。前場で、土地の老人(前シテ)が伊勢神宮参拝の者の前に現れて、阿漕という名の漁師が密漁の罪で処刑されてから、阿漕が浦と呼ぶようになった経緯を語る。後場では阿漕が亡霊(後シテ)となって現れて、地獄の呵責の陰惨さを舞う。 |
この能の阿漕という亡霊も、腰蓑をつけている。むろん亡霊だからではなく、漁師のスタイルだからだが、腰蓑は浦島太郎でもそうであるように、漁師のシンボルファッションであった。現実的には、漁や操舵時に海水で衣服が濡れないようにする雨ガッパ的役割であった。その腰蓑をつけて有爾中のカンコ踊りでは踊るが、このスタイルに関して五来重氏は明確な理由を本で書いておられない。ただ、新墓の木立に蓑を吊るす所が有るから、蓑をつけ笠で顔を隠すのは死者の一種のユニフォームである、と述べられるに留まっている。 ここはやはり能【阿漕】ではないが、伊勢神宮や海産海運国伊勢という観点から、このカンコ踊りの格好を考えないといけないだろう。 伊勢の国は農耕と共に豊富な海産物を伊勢神宮だけでなく、天皇に奉納する義務のある「御饌(みけ)つ国」であった。御饌の供進以外の物品は近隣には東国など遠方と交易可能な港があるが、当然そこまで伊勢の国の産物は舟で頻繁に運ばれたことであろう。 能【阿漕】で漁師は伊勢神宮の神領で漁をした罪だけでなく、殺生を生業とすることも地獄の業火で焼かれる理由であった。人間は殺生された食物を食べずには生きられないが、その罪を一身に引き受けて苦しむ漁師は、多くの民の身代わりであろう。漁師のシンボルである腰蓑をつけて踊る有爾中の鞨鼓踊りは祖先・祖霊の精霊迎え送りというだけでなく、漁業などを営む民や農民という立場からの、万霊供養の意味があったのだろう。そして赤熊(シャグマ)と呼ばれる馬毛の被り物であるが、これは馬の毛から農耕をイメージする。だから、祖霊だけでなく、海と田の邪霊・悪霊を攘し鎮魂する目的の格好だと思う。赤熊が頭上で高く伸びているのは、他の地域のシナイのように諸霊を憑かせるアンテナであろう。顔を踊手は隠しているが、人であって人でない、つまり個性を喪失した存在になっている。現世の人でもなく、冥界で成仏もしていない、、、そんな狭間で踊るのであろう。 有爾中の鞨鼓踊りは宝暦年間(1751−1764)ころに始まったという。口伝で伝わるため、現地でも資料は残っていない。上記は私見であることをお断り致します。
《参考文献》 |
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Last Updated 2010-01-01