1995年から9年間におよぶミャンマーに特化していた撮影を終了し、「日本!」の撮影に最初に向かった先は伊勢神宮であった。六月の月次祭における参進の奉拝・撮影をしたわけだが、それ以来、年に5〜6回は伊勢詣をしている。だが、伊勢市内の「かんこ踊り(鞨鼓踊り)」は今回が初めての撮影となる。伊勢神宮のお膝元で、民がどのような宗教観で今でこそ民俗宗教芸能とも云われる「かんこ踊り」を行っていたか、撮影はまさにショックであった。現在、伊勢神宮内宮の近くの「おかげ横丁・おはらい町」という土産物街は、多くの人で賑わっている。伊勢市内の人が皆無とは言わないが、殆どは伊勢以外からの観光客・参拝者であろう。あるいは、この人出の内容は、江戸時代と変わらないのではなかろうか。江戸時代に神宮周辺の民がどの位参拝したのか資料を持たないが、言えることは地方へ伊勢講を組織して伊勢神宮参拝を促進した御師という人々がいたことである。御師自身は伊勢を離れることなく、その部下ともいう導師が地方へ御師を名乗って出向いたらしいが、いづれにせよ外宮・内宮で700〜800ともいわれる御師(※1)が地方の人々の伊勢参拝の手引きをしていたから、地方からの参拝者で伊勢は賑わっていたことであろう。ただ、現在の伊勢観光・参拝に来る人と同様に、江戸時代の伊勢詣の人が、伊勢の民自体がどのような民俗宗教を持っていたかは、触れる機会が無かったのではなかろうか。かつて伊勢神宮外宮では、地方からの参拝者が御師邸に宿泊すると、祈祷のために湯立神楽を行っていたらしい。この湯立神楽が、もともと修験者によって祭事として行っていた湯立てのある南信濃に伝わってから伊勢流が入って芸能性が強まったという説がある(※2)。伝えたのは御師(じつは導師)や、伊勢参拝に訪れた地元民らしい。つまり現在、三遠南信(三河遠州南信濃)に伝わる湯立神楽は、伊勢神宮から北上していったのである。それに対して、伊勢志摩伊賀地方に現存している「念仏踊り・かんこ踊り」は、善光寺聖が信州を中心に広めていた融通大念仏が三河から伊勢に伝わり、三日市の如来寺・太子寺を中心に一身田を経て伊勢志摩伊賀に伝わった。そして一身田の専修寺が京都風に変化する段階で「京・やすらい花」の鞨鼓が入ったそうである(※3)。つまり、念仏踊りは信州から伊勢へ南下してきたのである。 信州から南下してきて伊勢の民に根付いた念仏鞨鼓踊りは、この地特有の異様なスタイルで成立した。有爾中の鞨鼓踊り のキャプションでも書いたが、馬毛のシャグマに腰蓑は農耕と漁労のシンボルで、それを身に着けて踊る。、むろん南方系由来(タヒチとか)など関係無いだろう。風流踊りが広まった江戸時代、鎖国中になぜ伊勢にだけ南方外国から文化が入り得たか、実証できなければ南方由来説は成立しないだろう。ともあれ伊勢とは神祇の世界とは別に興味深い民俗宗教芸能を伝える土地であることが分かった。 今回UPした円座も佐八も、共にお盆の供養の踊りである。特に円座では、「○○さんの念仏」と声がかかると踊るということがあった。初盆の霊の供養に踊るのであったろう。単なる芸能ではなく、宗教儀礼行事であることも忘れてはならない。 左写真は、佐八にて撮影。
《参考文献》 |
■円座かんこ踊り
撮影場所&日;三重県伊勢市円座町正覚寺、平成19(2007)年8月15日 |
■佐八かんこ踊り
撮影場所&日;伊勢市佐八(そうち)町長泉禅寺(佐八町公民館)、平成19(2007)年8月16日 |
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Last Updated 2010-01-01