伊勢市円座・佐八 でも少し記したが、伊勢方面に「かんこ踊り」が広まった拠点となったのは、伊勢一身田(現在の津市)の浄土真宗高田派本山専修寺であったという。鎌倉時代に大念仏や踊念仏を布教の生命としていたこの派が、元々この地にあって大念仏を行っていた厚源寺の地に移ってきたことによって、高田派・善光寺勧進聖によって善光寺を中心に信州から関東まで広がっていた融通念仏が三河から伊勢へ広がったのだという(※)。松阪市「猟師かんこ踊り」の地区の海念寺は、まさにこの真宗高田派であるから、この方面に広がった念仏踊り(かんこ踊り)は、脈々と伝承されてきたのであろう。 松阪市「猟師かんこ踊り」「松ヶ崎かんこ踊り」の特徴は、初盆の家を訪れる供養踊りにある。踊子はその家の庭先で、あるいは家の前で、延々1時間ほども踊り続ける。それを遺族が遺影を捧げ持って、踊りを見守る。UPした写真の中にも、その姿が写っている写真がある。その踊手の周りを遺族だけでなく、近所の町衆が取り囲み大変な賑わいとなる。荒魂を鎮魂するのに、死者の霊が寂しくないように鎮送する意味があるのだろうが、それは悲しみの裏返しである。 伊勢市や明和町有爾中 のかんこ踊りでは、馬毛のしゃごま(冠)に腰蓑で踊る格好が独特であった。有爾中かんこ踊りのキャプションにおいて、伊勢神宮へ御饌を献上する“みけつくに”である影響を、能【阿漕】の例をあげて考えたが、同じような漁師系のかんこ踊りでありながら、松阪市では法被・手甲に脚絆である。しゃごまは花弁を形どった中央に、高さ60Cm程の花が直立する花笠である。顔面は白布を巻きつけ、目だけが出ている、生身の性を消却した姿であり、それは現世の姿ではない。踊りは激しく、一種の反閇(へんばい)のようなステップも有り、死者を成仏させようという強烈な意図が考えられる。この強烈な意図を前面に打ち出した型のためには、伊勢の馬毛に腰蓑では踊りにくかったということで、同じ漁師系でありながら松阪市では伊勢とは異なった格好になったのではないかと想像している。「京・やすらい花(祭り)」においての花傘は、春の花の散る頃に疫神が散るのを攘するために、その疫神を憑かせる依代としての花傘が出る。それが風流化してかんこ踊りに花笠として導入された、と一般には云われる。なれど今回、遺影の前で踊る花笠の踊手を見ていると、単なる霊・荒魂や疫神の依代ではないと思えてきた。浄土はかくも美しい花咲く楽園である、という死霊が安らげる場所でなくてはならない。さればこそ花笠は浄土の象徴として、ビジュアル的にも美しく華やかでなければならなかったのだろう。 《参考文献》(※)【踊り念仏】五来重、平凡社、P.196 |
■猟師かんこ踊り
撮影場所&日;三重県松阪市猟師町、平成19(2007)年8月14日 |
■松ヶ崎かんこ踊り
撮影場所&日;三重県松阪市松崎浦町区、平成19(2007)年8月15日 |
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Last Updated 2010-01-01