撮影場所&日;京都市左京区久多、平成19(2007)年8月26日 撮影機材;Nikon D70s+SIGMA10-20mm、D80+VR18-200mm 現地情報;祭りは上之宮神社で20時開始し、志古淵神社で23時過ぎ終了、食堂など無し、駐車場は周辺 久多花笠踊において、花笠を作る担当となる四軒の家を「花宿」と呼ぶ。花宿で手作りされた花笠は、まつりの時に最初に上之宮神社へ奉納されるまで、花宿で志古淵神社はじめ三社の掛軸の前に置かれる。花笠踊は上之宮神社、大川神社そして志古淵神社の順に奉納されて踊られる。 かなり大雑把な言い方になるが、私がここ3年の間に撮影している民俗芸能には、精神的中核となる宗教的指導者の存在がそれぞれであった。奥三河の湯立神楽を伝えて指導したのは主に修験者や伊勢の御師(導師)であった。三河や伊勢地方の念仏踊の場合は、放下僧や念仏聖であった。神仏習合時代とはいえ、どのような宗教者が民俗芸能に関与したか分別できると思う。その点、久多花笠踊にはこの地方の産土神の志古淵神社を中心として村落祭祀としての性格が、昔も今も変わらなかったように思う。中世後期において畿内では、宮座という祭祀組織が成立していた。惣村(そうそん)といって村の同族結合を離れて、各「家」の衆議によって形成された村落共同体もできていた。そのような村の連合の「郷」の中心に神社があり、その祭祀を行ったのが宮座である。久多において宮座と集落の「上と下(かみとしも)」そして花宿が共同で行うのが花笠踊であり、その精神的中核は志古淵信仰であった。志古淵神は産土神であり、天神地祇の神々の世界とは違う。久多の民話である、、、志古淵という人が或る時、子供を筏に乗せて材木を運んでいた。するとガワラ(河童)が出てきて子供を攫ってしまった。志古淵さんは川の水を止めて、子供を奪還すると共に河童を咎めた。命乞いする河童を助けると、それ以来河童は出なくなったそうである。で、志古淵さんは筏乗りの神様として崇敬されたということである。この民話からは志古淵神は水難厄除の守護神として、あるいは川の氾濫を鎮める水神という性格も窺い知れる。鎌倉時代、隣村住人が薪取りに久多住人の禁足地である志古淵神の聖域に入ったということで、争いが起きている。この点からは、山ノ神という性格も知れる。すなわち総合的な神としての産土神の志古淵神である。そのような祭神を祀る惣という村の単位、あるいは宮座という祭祀組織によって、京の都で室町時代末期に流行っていた風流踊が産土神に奉納する行事として導入されたのだろう。まるで供養の石塔である宝篋印塔のような形の花笠ながら、歌詞は風流な室町小唄であり、念仏ではない。これは念仏踊が風流化していく時点と、風流が更に芸能化していく分岐点の時代に久多花笠踊が発生したからではなかろうか。念仏踊と風流の両方から影響を受けているように思う。訪れるまでは久多花笠踊も念仏踊の一種だと思っていた。多少はその要素もあるだろうが、中核となる祭神や宮座組織そして歌詞からも、念仏踊とは少々異質と考えねばならないだろう。 日が落ちると真っ暗となる山間の道を、提灯を先頭に蝋燭の火が燈った花笠が行灯のように揺れながら道行をする。幻想的な風景である。昭和初期までは少年が頭に被って踊っていたという花笠も、今では壮年男性が抱いて踊る。形はかつてと変わったが、その踊の情景もおぼろげで妖しい。素晴らしい祭りである。 《参考文献》 【久多の花笠踊調査報告書】久多花笠踊保存会、芸能史研究会(昭和49年3月発行) 【神道】井上順孝編、新曜社 |
上左写真;花宿にて、 上右写真;上之宮神社で花笠奉納 |
上写真2枚;上之宮神社にて |
上写真2枚;上之宮神社から大川神社へ道行 |
上写真;大川神社にて |
上写真2枚;大川神社から志古淵神社へ道行 |
上写真;志古淵神社では踊の奉納の時に、拝殿から二人の神殿(こうどの)が観閲する。神殿は、年齢階梯制の宮座組織から選ばれる。 |
上写真2枚;志古淵神社にて |
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Last Updated 2010-01-01