撮影場所&日;三重県鈴鹿市三日市、平成22(2010)年8月4日 |
20時より如来寺を出発した総勢約50人が東西の二組に分かれて、集落内の寺や辻々で、地面にしゃがんで念仏をあげていく。 念仏衆は切子灯籠を先頭に、後方を東西各二基の傘鉾が従う。ただし三重県の鈴鹿・伊賀・伊勢地方に広く伝承されている所謂“かんこ踊り(鞨鼓踊り)”のように太鼓を胸に、背にシナイを背負って勇壮に踊ったりする、踊り念仏ではない。一人が鉦を打って、ブツブツと念仏や小唄をつぶやくのである。 ここの如来寺・太子寺は二寺で一ヶ寺をなし、これは信仰形態の元祖・善光寺聖が善光寺阿弥陀如来と四天王寺聖徳太子を同格に信仰したことにより、如来寺・太子寺併立の寺である。 三重県の“かんこ踊り”や“大念仏”は、善光寺を中心に信州から関東地方に広がった融通念仏が、下野高田専修寺派の善光寺勧進聖によって、三河から伊勢に伝わり、ここ如来寺・太子寺を中心として津(一身田)から三重県各地に広がった、というのが五来重氏の説である。すなわち撮影してきた「おんない念仏会」は、三重県における大念仏や“かんこ踊り”のルーツと云えるかもしれない。 しかし地面にしゃがみこんで念仏を唱えるだけでも供養になるだろうが、そこで霊を慰め自分達も忘我する踊りを取り入れ、それがさらに芸能チックになっていくという念仏踊り、、、踊りの有無など供養の方法の発想の違いとは、面白いものだ。 おんない念仏の起源については、浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子で、三日市で布教にあたっていた専修寺三世顕智上人(1226〜1310)が、延慶三年(1310)7月4日に如来寺で説法中、日没に至って村の南端「一ツ橋」を最後に行方がわからなくなり、村人は悲しみ、念仏を唱えながら、雨の中を捜したという伝説があり、「おんない」は「御身無」の音韻が変化したものと伝わる。が、鉦のみで太鼓も笛も無いことから、「音無い」が変化したのではないかとも、思っている。 太鼓踊りや風流・放下踊りのルーツの可能性もある、興味深い念仏である。 |
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Last Updated 2011-08-10