撮影場所&日;愛知県新城市大海、平成18(2006)年8月14日
撮影機材;Nikon D70s、Nikkor VR18-200mm、SIGMA10-20mm
能楽に【放下僧】という演目がある。父の仇討ちに、禅の修業中の兄が還俗して兄弟で放下僧に身をやつして仇に近づき、仇の前で種々な芸を見せて安心させたところで本懐を遂げる話である。このストーリーから、放下僧は禅寺に修行していた僧が放下となって諸国を周ること、そして芸を持った僧も居たことが推察されます。
元々、放下僧は禅寺で食事の給使や雑役をしていた喝食だったそうだが、後には彼らの中から現れた異形の大道芸能者を放下と呼ぶようにもなったそうである。大海の地でも大団扇を背負って踊るのは、この地へ来た僧が地元民の気を惹こうと大団扇を背負って踊ったとも云われてます。このように諸国遍歴する放下僧が、半分芸能者的に踊りを見せながら念仏を唱えたのが始まりである可能性はありますが、定かではありません。高野山の一派には禅の修業をしながら念仏を修める派があったそうで、禅と念仏の異質の合体は不思議なことではないようです。大団扇ですが民俗学的には、動いて起こる風が悪霊や諸精霊を追いやると説もあります。その大団扇は丈が3m、巾1.2m、重さ6Kgあり、風圧を考えると重労働です。それだけでなく腹部には5Kg前後の太鼓を抱いて、打ちながら踊ります。太鼓は叩くというより、打つと表現されます。これは煩念や悪を太鼓に打ち込むという解釈です。踊る運歩も大地に悪霊を踏み込む、と云われますが、大地に潜み成仏・供養の妨げとなる悪霊を鎮めていく“反閇(へんばい)”の一種といえましょう。
道行きの行列は、「南無阿弥陀仏」と書かれた切子灯篭を先頭に露払いで進んで行きます。
14日には泉昌寺を出てから、鎮守の滝神社、設楽が原合戦戦死者の塚、町の墓地や新盆の家を二軒まわって供養をされました。大海は240軒、900人ですが、亡くなった人を地域全体で供養しようという気風が放下踊りを伝承させているわけです。放下踊りを自宅に迎える家の人にとって、それは深い悲しみと同時に供養されて故人が成仏できる安堵でもあるでしょう。この点は部外者の私が踊りの迫力に、ただただ感動するのとは全く違う感慨がありましょう。この点は再考せねばいけないと思います。
《参考文献》
【能楽手帖】権藤芳一
【踊り念仏】五来重、平凡社選書
大海放下踊り保存会パンフレット
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