撮影場所;京都府相楽郡南山城村大字田山 撮影日;平成18(2006)年11月3日 撮影機材;Nikon D70s+SIGMA10-20mm、 D80+VR18-200mm 現地情報;名阪国道五月ICより約10分、農村婦人の家駐車場、食堂無、踊りは13〜15時 |
田山花踊りは雨乞いの神事と云われる。田山地区は高台にあり、農業用水の確保に苦労した地区だったようだ。 田山花踊りの残存する最古の記録は、安永2(1773)年に花踊りが行なわれた時の床几があるという。この時を花踊りの最初とする説もあるようだが、詳細は不明である。 この田山から直線距離で約20Kmの 伊賀市山畑・勝手神社神事踊り も雨乞いの踊りとされているが、この「神事踊り」と呼称される行事もかつては「祇園祭神事花踊り」という名で記録されているとの指摘もある。あるいは田山花踊りも同様に祇園天王信仰に由来する、御霊=疫神鎮めの影響を受けて発生した祭りかもしれない。 田山花踊りの最古の記録がある安永の頃は、そもそも種々の民間信仰芸能が花開いた時期なのだろうか、、。三遠南信の花祭をはじめとした霜月神楽も、同様な時期に面舞が演目に増えるなど、内容の変化の見られた時期である。江戸時代の泰平で、祭りを行なう余裕が出てきたものの、依然として天候に左右される不安定な農業生産関係の事情が、各種の民間農耕・山林儀礼や生死観に影響を与えたことが考えられよう。思えば名古屋を中心に、その東方100Kmほどには伊勢流湯立神楽や念仏風流踊りがあり、西方100Km圏内には雨乞い・念仏風流踊りの文化圏が広がっているのは面白い。この地方の雨乞い花踊り(あるいはカンコ踊り)が京や奈良方面の神事の影響を受けていても、地の利から不思議ではない。雨乞いに奉納する踊手は、背にシナイと呼ばれる花傘を背負う。この花傘は京の念仏踊りである「やすらい花」に由来すると云われるが、祇園天王信仰の影響を受けていたとしても、行事の本質は変わらない。御霊や疫神を鎮撫して農耕の災いを避け、村内安全を祈願するわけだ。 田山花踊りは午後1時に、旧田山小学校で「愛宕踊」を踊ってから「入端(いりは)」という道行きになる。入端は、約200m離れた諏訪神社まで移動する。「入端」は、警護の武士姿・払い棒・長谷川流棒術の少年群・道化・入端太鼓・山伏・ササラ・唄付け・中踊そして神夫知で華やかかに行なわれる。神社境内では、「氏社の踊」「拾九踊」そして「御庭踊」の三曲が午後3時15分頃まで踊られた。 |
上写真左右;道化(ひょっとこ&天狗)ヒョットコとオカメというパターンが多いが、天狗は田山花踊りが復活した時に猿田彦命の象徴として替わったのかもしれない。道化は踊りお師匠だという。さりげなく踊手に指図していたのが、面を付けるようになったのかもしれない。 上写真中;長谷川流棒術は柳生藩の長谷川家に伝わる武術であった。藩が関係した神事で、警護を兼ねていたのだろう。今では少女も参加している。 |
上写真左;唄付けは金箔のマスクで顔を覆う。人と龍神や諸霊の間を介する霊媒師的な役割があったように思えてならないが、、、。 上写真右;山伏が法螺貝を吹く。法螺貝は雨雲を呼ぶというが、法螺貝自体ではなく、山伏の山岳修験道の呪法というか祈祷術が呼ぶのであろう。法螺貝は、あくまで龍神の眠りを覚ますアイテムにすぎないだろう。山伏は憑き物落しの呪法で、人に憑いた物の怪を落としていくから、村に禍いなす怨霊を調伏する意味も山伏の参加にはあるだろう。 |
上写真4枚、いづれも諏訪神社にて。シナイと呼ばれる花傘は、長さ2mもある。踊手は12人居る。 |
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Last Updated 2010-01-01