日本!(念仏・風流)
No.6 谷汲踊(鎌倉踊)
撮影場所&日;岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲、平成19(2007)年2月18日
撮影機材;Nikon D70s+SIGMA10-20mm、 D80+VR18-200mm
現地情報;豊年祈願祭における踊りは、11・13・14時の三回。駐車場、食堂あり

  谷汲踊は、別名「鎌倉踊」と呼ばれる。保存会・観光協会のパンフレットによると、源氏が平氏を西海に撃ち滅ぼした将兵が鎌倉に戻り、戦勝を祝って踊ったのが始まりということだ。なぜ鎌倉で踊ったのが谷汲で、、と思うが。太鼓を抱いて、背には大きなシナイを背負って踊る踊りは、元は神楽や田楽から派生して風流化した踊であり、鎌倉幕府開府の時期に起源を求めるのは苦しかろう。それはさておき、この地が源氏に関係ないかというと、さにあらず。谷汲踊の踊手が背負うシナイの背の部分や太鼓には、源氏の象徴たる「笹りんどう」の家紋が付いている。ここの谷汲から南下すること約12Km、大垣市の青墓には、源頼朝の兄の源朝長の墓がある。平治の乱(1159年)に平清盛方に破れ都落ちした源義朝親子が坂東を目指して落ちる途上、朝長が落人狩の襲撃で傷を受け、この地で自刃したのだ(※1)。なれど何故、源義朝らは鈴鹿越えをしないで雪深い時季に不破関を越えたのだろうか。平安時代末期の地方武士団の分布を見ると(※2)、伊賀・伊勢・関や桑名は桓武平氏の土着地であり、美濃(山県・土岐ら)は清和源氏の土着地であった。必ずしも平家と源家が赤白の色分けできるような状態で敵味方に分かれたのではなく、政治的趨勢でどっちにも付いたのが現状であったにせよ、源義朝らにとって美濃は源氏所縁の地であるという心安さがあったのかもしれない。つまり、美濃は源氏に縁のある土地であったのだ。もし谷汲踊の起源が江戸時代としても、時の将軍家は源氏の血統を名乗っていたし、源氏所縁の地であるという誇りが地元民にあったのかもしれない。
「谷汲踊」が「鎌倉踊」とも云われることから上記に想像してみたが、一般的にはこのような祭りは雨乞い・日乞いや供養の踊とされている。太鼓は遠雷を想像する類感呪術であるし、シナイで起こる風は雨風を呼ぶ感染呪術であろう。

※1)能楽【朝長】に、朝長が修羅に落ちて苦しむ悲運が描かれている。
※2)日本史年表・地図(吉川弘文館)を参考。

上写真;町営門前駐車場(14時〜)

上左写真;旧名鉄谷汲駅前(11時〜)、 上右写真;町営門前駐車場

上左写真;華厳寺仁王門前(13時〜)、 上右写真;門前町(13時20分)

上写真2枚;華厳寺仁王門前


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Last Updated  2010-01-01