撮影場所&日;静岡県静岡市葵区、平成21(2009)年4月5日 撮影機材;Nikon D300&D80、VR70-300mm&VR18−200mm、SIGMA10-20mm 静岡浅間神社の廿日会祭例大祭(毎年4月1〜5日)の最終日、午後3時半から舞殿で奉納される稚児舞楽は、長い歴史がある。 記録として残っている最古のものは、戦国時代の公家山科言継の日記「言継卿記」においてである。言継は弘治2(1556)年6月に義理の叔母である寿桂尼を訪ね滞在、弘治3年2月18日に建穂寺で稚児舞を見学、そして22日には浅間神社においても稚児舞を見学したと記されているようである。この稚児舞はその後に衰退するが、徳川家康が大御所として駿府に入府するやいなや、改めて建穂寺から奉納する例を復活させたという。現在、浅間神社において舞われる稚児の舞楽は、元々は建穂寺において舞われていた舞楽であったのだ。すなわち、寺院における延年の舞と云えよう。山科言継が稚児舞楽を見学した日付からは、修二会関連の法要の後の遊興の稚児舞楽だった可能性もあろう。あるいは公卿が来寺したことによる、貴賓接待の酒宴の歌舞だったのかもしれない。そもそも寺院における稚児の存在は、能の演目【鞍馬天狗】においても暗示される男児たる牛若に対する山伏の好意(衆道)という点を念頭に置く必要があろう。舞楽を舞う稚児の額には、白粉で“月形”が印される。これは“星の位”を表すという。星の位とは、星辰信仰が影響しているのだろうが、「三台星の位のことで、虚精星、陸淳星、曲順星の三台星が、天帝の紫微星を左右から守護する様を、三大臣(太政大臣・左右大臣)が天子を守護補佐するに擬していったもの(※)」とのことだそうだ。広義には、宮中に列する公卿や殿上人のことを云う。すると、舞楽を舞う稚児は公卿や殿上人と同格という意味なのだろうか。その点、どうかな?と思うのだ。実は“星の位”とは江戸時代の大阪新町の遊女を指して称したともいうのだ。そうなると“星の位”は一種のアイロニーにも思えてくる。家康がこの稚児舞楽の復興をした時から稚児の額に“星の位”を印したか、もう少し後のことか、その点が重要だが、知る術が無い。なぜ重要かといえば、家康の黒幕であった天海は死後の家康に“東照大権現”と称した東国を照らす神様に祀り上げているのに対して、朝廷は西方に存在する故に阿弥陀浄土という暗闇の過去の世界に同視した。一種の徳川曼荼羅である。この曼荼羅的に想像を広げるなら、稚児に殿上人と同じ“星の位”を授けることは公卿を遊興の場で舞わせて楽しみ、そして衆道の相手もさせる、それは遊女と同格、というアイロニー的な朝廷を封じ込ませる意味合いがあるのではないかと思ってしまう。ただ単に、稚児=神仏の子、という美麗な言葉だけで済まされないように思ってしまうのだ。 《参考文献(※)》【有職故実】石村貞吉;講談社学術文庫、P.47 |
■ 古式稚児行列&稚児供覧(午前11時〜午後1時)
静岡浅間神社さんの廿日会祭例大祭(4月1〜5日)の最終日、舞殿で舞楽を奉納する稚児は輿に乗せられて、浅間神社から約2Km離れた小梳神社を午前11時に古式稚児行列として出立した。一時間かけて神社石鳥居横の麻機街道に着くと、置かれた輿に乗った稚児の前でにお踟(ねり)も五台が集結する。稚児供覧として“お踟曳き揃え”である。そして稚児の前で、木遣り、地踊りなどが行われる。お踟は江戸時代の元和年間より始まったとされ、天保13(1842)年からは駿府九十六町を東西南北の四組に分け、一組づつ年番として本踟を曳き、その他の町からは役ねりを曳きだすこととなったそうである。舞楽を奉納する稚児が建穂寺から安倍川を渡ると河原で余興をして稚児を慰労し、行列を組んで浅間神社へ向かったという。建穂寺は神仏分離された明治元年に廃寺になったので、建穂寺からの行列はない。その代わりに今年の小梳神社と別雷神社を交互に出立神社として、浅間神社へ古式稚児行列が行われている。五台のお踟とは、明治19年製の神武車&平成8年生の咲耶車の安西踟、大正年代製の木花車(中商連踟)、大正時代製の稲荷車(駿府本部踟)そして大正年代製の暫車(本部伝馬踟)である。各踟の屋台上では、面舞も行われる。 |
■ 桜 |
■ 稚児舞楽(午後3時半〜4時半) |
上写真;振鉾 |
上写真;納曽利 |
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上写真;還城楽 |
上写真2枚;太平楽 |
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Last Updated 2010-01-01