日本!(雅楽・舞楽)
〔鄙舞楽・地方舞楽〕 No.8 能生白山神社 舞楽
撮影場所&日;新潟県糸魚川市大字能生、平成21(2009)年4月24日
撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm、D80+VR70-300mm

能生白山神社 春季大祭における舞楽奉奏は、午後1時50分から始まった。
舞楽は稚児さんが8曲と大人の楽人さんが3曲の、計11曲を舞う。
(ア)【振鉾(稚児2人)】、(イ)【候礼(稚児4人)】、(ウ)【童羅利(稚児1人)】、(エ)【地久(稚児4人)】、(オ)【能抜頭(大人1人)】、(カ)【泰平楽(稚児4人)】、(キ)【納曽利(大人2人)】、(ク)【弓法楽(稚児4人)】、(ケ)【児抜頭(稚児1人)】、(コ)【輪歌(稚児4人)】、(サ)【陵王(大人1人)】である。
中央の雅楽・舞楽に同曲のみられる演目もあるが、(イ)のように見当たらない曲もある。また、(ウ)は『安摩』の変形、(ク)は舞楽に里神楽が混ざったような曲も見られる。しかしながら(ア)(オ)(キ)は、比較的中央の舞楽の舞容を残した舞い姿であった。(キ)は中央の舞楽では双竜が舞台で二度ほど跳び上がるが、ここでは10回ほど跳んだ。跳ぶという印象的な行為が、強烈なインパクトで舞いの中に溶け込んで、何度も跳ぶように変化したのであろう。
(サ)の【陵王】は、実に1時間にも及ぶ大曲であった。予定では舞楽は午後1時始まりということだったが、50分ほど遅れた。そのおかげで、ちょうど【陵王】の日招きの舞のころに夕陽となった。ゆえに橋掛かりの舞の頃は、しっかり暗くなった。陵王が終わったのは、午後6時55分ころで、御神輿の還御が終わったのは午後7時05分ころだった。

■能生白山神社 舞楽【陵王】について
ここの【陵王】は、別名の【没日還午楽】と呼んだ方がふさわしい。
【陵王】の舞の中に、日没の太陽を戻すが如くの所作が有るからである。日招きの所作は、写真で表すとなると難しい。日招きの舞は当然ながら蘭陵王は夕陽に向かって立つので、所作を正面から写すと太陽は一緒に写らない。太陽と一緒に蘭陵王の日招きの所作を写せば、蘭陵王の背中を写すことになる。日招きは背筋を伸ばして舞うが、太陽に背を向けたときは、なんだか面(おもて)をしおらせたように猫背になっている。拝殿も御旅所も、蘭陵王が太陽に向かって立った時には背後に位置するから、一応は太陽にも背を向けて舞い、その時は御旅所には正面を向く状態となる。舞容から見ても、太陽に向かった時のみが生き生きとしており、特別なパワーを太陽から受けている感じが伝わる。
ところで舞楽【蘭陵王】は、別名【没日還午楽】ともいう。 「脂那国の王が隣国と戦っているときに崩じ、その子が即位して戦ったが、争いは止まなかった。太子は王の陵に向かって悲しんでいると、父王神魂を飛ばして暮れようとしている日を招いた。ここに蒼天となり、合戦は思いの如くうちとった。世はこぞって歌舞し、没日還午楽と名付ける(※)」 というのが、別名の由来である。王の固有名詞を曲名に使ったのが【蘭陵王】で、戦術を使った曲名が【没日還午楽】と解していいのだろう。しかし、その逸話からは、その太子は呪術をもって政治を行うシャーマンのような存在であったのだろうか、という疑問がでる。
能生白山神社の舞楽は、天王寺から伝わったとされている。なるほど、天王寺楽所の伶人さんが中央の雅楽・舞楽を伝えたのが最初であったろう。しかし、現在の能生白山神社の【蘭陵王】は中央の舞楽とは全く異なった舞になっている。おそらく天王寺から伝わって伝承されている間に、地元の宗教事情なので変化、改革が加わったのであろう。中央の雅楽・舞楽でさえ、大陸や朝鮮半島から奈良時代に伝わって後の平安の大改革に日本人に合うように変更がなされたことを思えば、中央の舞楽が地方の事情で変えられることも、中央で行われたことの地方版と云えなくもない。
能生白山神社舞楽において、舞楽【陵王】は少々別格の曲である。というのは、楽屋から舞台への約20mほどの橋掛かりの両側には、参拝者が榊を手に振りながら、陵王を囃したて歓声を上げるのだ。舞いの途中には、“日招き”の所作で夕陽に向かい手繰り寄せるような所作をする。舞台での舞が終わると、再び橋掛かりを舞ながらジワジワと進む。そして一気に楽屋に飛び込んだ瞬間、御旅所から三基の御神輿が大歓声と共に拝殿に走り込んで担ぎ込まれる。陵王が単なる舞人でなく、日を招く行為そして地元参拝者が榊で囃すことからも、日の神霊が陵王に憑き、それが御輿に依り、拝殿に還御するのであろう。日のパワーの憑坐(よりまし)としての蘭陵王であり、御輿への神霊の伝達役なのであろう。
日招きの所作は、中央の雅楽・舞楽においても前記したような故事にもあるが、それが逸話としてでなく、ここ能生白山神社の舞楽においては宗教的な手続きとして生きている点が凄いことである。日を招いた太子はシャーマンだったのか、と前記したが、能生白山神社の【蘭陵王】も同様に、太陽の神霊を自らに憑かせる巫者(ふしゃ)として存在している。あるいは没する日を戻すのだから、呪術者と称してもいいかもしれない。このような呪術性を【蘭陵王】に祭礼で託したのは、白山信仰の修験道の修験者の存在抜きには考えられないだろう。山ノ神信仰に密教や神道に陰陽道が習合した修験道は、各地のお神楽の発展にも寄与している。であるから、能生白山神社の【蘭陵王】は、元は中央の雅楽伶人さんによって伝えられたとしても、この地で伝承される間に修験者の意図を反映した舞に変質していったのではなかろうか。本地垂迹説においては日の神の天照大御神は、両部習合神道や修験道の神仏の大日如来に相当する。
想像で書いてみたが、ミステリアスな舞が能生白山神社の【蘭陵王】であり、まさに【没日還午楽】である。
( 参考文献※ 雅楽事典;音楽之友社、P.197


上写真3枚;御神こうの打ち出し(獅子舞、稚児)。午前9時頃〜。

上左写真;御神こうの打ち止め(お走り)、上右写真;供神饌(拝殿から御旅所へ)。午後1時頃〜。

上左写真;【振鉾】(稚児2人)、上右写真;【候礼】(稚児4人)。舞楽は午後1時50分〜午後6時55分。

上左写真;【童羅利】(稚児1人)、上右写真;【地久】(稚児4人)

上左右;【泰平楽】(稚児4人)

上左写真;【能抜頭】(大人1人)、上右写真;【納曽利】(大人2人)

上左写真;【弓法楽】(稚児4人)、上右写真;【児抜頭】(稚児1人)



上写真3枚;【陵王】(蘭陵王、没日還午楽)
曇り気味だったこの日、一瞬だが太陽が出た。まさに陵王が太陽を呼んだのだ。


■参考; 中央の舞楽【蘭陵王】

 (平成17年7月3日撮影。
皇學館雅楽部、舞人は竹原氏)


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Last Updated  2010-01-01