後南朝の皇子を四人、探訪する |
■ 義仁王
明徳4年(1393)生 ― 正長元年(1428)12月 現・岐阜県可児市で戦没。
後亀山天皇の皇子である小倉宮良泰(実仁・聖承)(廟所は川上村東川)の23歳の時 の皇子。つまり後亀山天皇の孫。 南北朝合一(1392年)の時は伊勢の北畠の元に留まっていたが、北畠満雅の戦死後は 伊勢を脱出し、足利方と南朝方に 分裂してお家騒動が起こっている美濃国の城主・今峰孫次郎氏光の丸山城(八百津 町)に入った。しかし土岐の血族間の 合戦に巻き込まれて乱戦の中で応永32(1425)年9月、土岐持益に捕らわれてしま う。羽崎城の土岐羽崎三郎光直の館 にて正長元年(1428)12月、奉殺された。 |
上写真2枚;義仁王の御陵とされる円形の盛り上がりの有る羽崎八幡宮と、本殿の菊の御紋。 |
上写真; 義仁王が御祭神とされている時之島八幡社。羽崎八幡宮の御陵からある時沢田法源なる人物が義仁王の首級を移葬し、八幡社の御祭神に合祀したという(定かでないが)。 |
■ 義有王
応永14(1407)年生 ― 文安4(1447)年 現・和歌山県湯浅町で戦没。 後亀山天皇の弟の説成親王(護聖院)の皇子。小倉宮良泰(実仁・聖承)の猶子とな る。 嘉吉の乱で北朝の朝廷に討ち入り、神器を奪取(「禁闕の変(嘉吉3年、1443 年)」。 兄宮の小倉宮第二代・泰仁(天基)は叡山で包囲されて自害するも、義有王や金蔵主 (尊義王)は脱出する。 神璽を奉持した義有王は現・川上村東川の行宮に戻った。 文安元年(1444)、吉野河上郷(現・川上村三之公八幡平)の「御座所」にて、 神璽を奉じて旗揚げする。 尊義親王は受禅によって南帝中興天皇となり、義有王は征夷大将軍となった(※ 1)。 あるいは嘉吉3(1443)年に義有王は吉野新帝と称し、南朝の年号を天靖元年とした という(※2)。 文安4(1447)年、義有王は楠木正秀と紀伊に進出し、八幡山城に籠るも足利賊軍の 畠山持国の軍に攻められて尊義中興天皇は江州に走り、義有征夷大将軍は湯浅城に退 く。 文安4(1447)年12月22日、湯浅城も落城し、義有王は吉見の地まで落ちたところで 流れ矢に当って自刃された。 尚、義有王には『美作南朝(津山市付近に存在した後南朝)』における異説が有る。 紀伊で戦死の報に接した美作の尊義王(高福天皇;美作南朝の初代天皇)は義有王の 6歳の遺児を猶子とし、美作南朝第二代天皇である尊雅天皇(興福天皇)としたとい う (※3)。年号の「天靖」は美作南朝でも用いられている。
(※1)中谷順一氏著『南帝由来考』 |
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上写真3枚;湯浅城跡の遠景と登城口だ。ただし登城口には柵があって施錠されている。 開錠には教育委員会に電話するように番号が記載されていたが、週末の登城は無理のようだ。 山続きに「国民宿舎 湯浅城」という近代天守の模造建築物も建っている。 |
■ 尊雅王
永享2(1430)年生― 長禄2(1458)年 現・三重県熊野市で戦没。 北畠満雅が伊勢で南朝擁護の兵を起こした頃、満雅の館で生まれたとされる。 母は野長瀬の娘である横矢姫であるが、父親は義有王とされる。 尊雅王は後南帝中興天皇である尊義王の猶子となり、尊義王の皇子である尊秀王(自 天王)、 忠義王に続く三之宮となっている。その三人、つまり尊義王と義有王に尊雅王は現・ 吉野郡 川上村三之公八幡平のに行宮と設けた。 やがて尊義王と義有王は紀伊方面に出撃し尊雅王は留守を守ることとなるが、その紀 伊方面 で敗戦し尊義王は江州へ逃れ、義有王は湯浅で戦死する。文安4(1447)年である。 その翌年、江州より尊義王は二皇子(自天王・忠義王)を伴って再び現・川上村に戻 られた。 尊義王は中谷氏著『南帝由来考』によると文安5(1448)年には三河地方の南朝旧臣 と 連携をしていたという。そのような点も『三河南朝』史に尊義王が三河に来ていたと いう 説を与えているのだろう。 尊義王は享徳3(1454)年に自天王に受禅し、自らは太上天皇となるが、翌年には崩 御 されている。そして、、、長禄元年(1457)、赤松浪人が自天王と忠義王を襲撃し、 神璽を 奪って逃走するという事件が起こった。奪われた首級と神璽は取り戻されて尊雅王が 南帝となって神璽を奉持して紀伊方面の高尾谷城を行宮とした。しかし長禄2 (1458)年 8月22日(または8月4日)に高尾谷城は攻められて神璽が強奪されて落城、尊雅王側 は 楠木一族13人、和田一族63人の戦死者を出し、傷付いた尊雅王は楠木理治が光福寺に 運び 込んだが、8月27日に自害されたという。 神璽は北朝側に加わり尊雅王を襲撃した首謀者の小川弘光によって奪われて、同月30 日に 京の北朝側禁裏に治められている。 |
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■ 信雅王
生没年不明 尊雅王を父とし、奥吉野に隠れ棲むところを応仁の乱の折に山名宗全が西陣「南帝」 として 奉じたという。一方、『美作南朝』によると、西陣南帝は美作南朝第三代天皇の西天 皇 (忠義)だという。西天皇は初代・高福天皇(尊義王)の皇子で、赤松方に暗殺され た 二代・興福天皇(尊雅)の後に天皇に即位した。即位と同時に年号を「明応」とし た。 信雅王は私年号だが1467年を元年とする「明応」をたてた(〜1488年)。 応仁の乱の終結(明応10年、1477年)後は甲州など各地を移動し、最後は現在墓所の ある 時之島で没したという。ただし、戦後の「自称天皇」の熊沢氏は信雅王がルーツと称 しており、 時之島の添付写真の石碑も熊沢氏一族のO氏によるもので、史的真偽は不明である。 その熊沢天皇は信雅王から二十代目の皇胤ということだ。 なお、自称天皇熊沢氏の説とは別に、姓名不明の西陣南帝(南朝皇胤)は応仁の乱後 は 各地を放浪したという説もあり、文明11年(1479年)7月19日に越後から越前に到達 した ことを最後に史料から姿を消した。この時をもって後南朝に関する記録も無くなり 歴史から南朝は姿を消した。 |
上左右;信雅王の碑と石塔。宝篋印塔と五輪塔の寄せ集め塔だ。 |
上写真;参考文献 |
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Last Updated 2021-06-13