撮影場所&日;京都市西京区嵐山宮町 松尾大社、平成20(2008)年7月20日 撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm、D80+VR70−300mm 松尾大社さんの御田祭では、植女となった少女が壮夫に肩車されて行事に参加するが、それは記録によると永和3(1376)年の松尾社年中神事次第には既に記録されているらしい。本殿内での祭典で神職さんより神稲(早稲、中稲、晩稲)を受け取った三人の植女たる少女は、壮夫(父親が務めている)に肩車されて拝殿を三周し、神饌田へ向かう。神饌田前で植女から神稲を受け取った神職さんは、早乙女となる神職さんと巫女さんにその神稲を渡すと、神饌田の四隅に植える。その後は、神職さんによる「虫除けの儀」である。 上記の如くが松尾大社さんの御田祭の流れであるが、特徴的な箇所が二点ある。それは、植女が本殿から神饌田まで肩車される点、そして虫送りたる儀礼が同時に斎行される点である。 民俗芸能では、これから舞を奉納する舞子が舞処まで肩車される例は散見される。例えば拙HPにUPしてある例では、加茂神社稚児舞楽(富山県)や花祭(愛知県の湯立神楽)の例である。神聖な舞処に「神仏の化身」あるいは「神仏の顕現」たる舞子が汚れ無き状態で舞い降りるには、途中で地面に触れるわけにはいかないのが、舞の場所まで肩車される理由である。では松尾大社の場合は、どうなのであろうか。植女は御祭神から授かった穀霊を宿した神稲を、自身が穀霊となって神饌田まで運ぶ、一種のメッセンジャーとして地面に触れるわけにはいかないのである。地面に触れる場こそ、穀霊の霊力が発揮される神饌田でなければならないのである。このように考えると、稚児舞楽や花祭とは少々意味合いが違うようにも思えてくる。民俗芸能の舞子は基本的に男子(現在は少子化のため女子の場合もあるが)であるが、松尾大社の植女は孕むという行為が生育に共通するから、女子でなくてはならない。そして民俗芸能の場合より、より憑坐(よりまし)としての性格が強く思える。子供は神や霊が憑きやすいのであるが、女性にも憑き易い。これは憑坐としての重要点である。すなわち植女は穀霊の憑坐として、本殿から神饌田までの穀霊の引き移し役なのである。穀霊の霊力を稲に憑依(ひょうい)させるのではなく、植女という存在に憑かせて憑坐たる存在となることこそ重要であったのだ。 第二点の虫除けの儀であるが、これから稲穂が実を結実してくる時期に田植え祭を行う意味がここにあるのであろう。本来の田植えの時期に御田植祭を行うのなら、もっと春でなくてはならないからである。 余談になるが、憑坐とは加持祈祷調伏などで重きを成す存在であった。元々が神仏習合の時代の儀礼であったから、現在の神社にその憑坐のように推察される(私見だが)が残っていても不思議ではないと思う。 尚、憑坐については下記の本に詳しい。 《参考文献》【憑霊信仰論】小松和彦;講談社学術文庫 |
上左右写真;本殿での祭典での巫女神楽【倭琴之舞】。 |
上左右写真;植女の玉串奉奠。そして神職より神稲を受ける。 |
上左右写真;本殿での祭典後、壮夫に肩車されて拝殿を三周する。拝殿の周囲には奉納された農作物が並び、植女がその農作物の周囲を周ることで将来の豊穣を予祝していくのであろう。 |
上左写真;神饌田で植女から早乙女に神稲が渡される。 上右写真;虫除の儀 |
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Last Updated 2010-06-10