撮影場所&日;三重県度会郡南伊勢町古和浦、平成22(2010)年7月10日 6月12日に浅間祭を撮影してきた古和浦において、今度は祇園祭を撮影してきた。この辺り周辺の集落の各家の玄関軒先には、一見するとお正月の注連縄のように見える蘇民将来護符が、一年中付けてある。そんな土地での祇園祭りは、大変に興味深いものであった。まず祇園祭りについて記さないと、古和浦の祇園祭りに関しても推測できない。 これから京都の八坂神社を中心とした祇園祭りが行われるが、古和浦の祇園祭りも、その系譜上にあることは疑いもない。京都の八坂神社という名称は、神仏分離の明治になってから付いた名称で、それまでは祇園感神院といい、御祭神は牛頭天王であった。牛頭天王の伝承の出発点は備後で、『備後国風土記』において現れている。それが備後→播磨→山城と東漸してきて、平安京に落ち着き、牛頭天王信仰の中心となった。牛頭天王は元々は祇園精舎の守護神とも、あるいはチベット由来の神とも云われる。その性格は荒神・疫病神で、それが転じて延命・厄除け・厄病防除の神様という御利益になっている。平安京における祇園感神院(現・八坂神社)の根本的な縁起を記した『祇園牛頭天王御縁起』というテキストは、牛頭天王や蘇民将来について詳細である。独身の牛頭天王が・海の龍宮に住む美しい姫の婆梨采女(はりさいじょ)を娶るために、旅に出た。途中、夜叉国の国王の巨旦将来(こたんしょうらい)に宿を求めたが、拒否される。しかし巨旦将来の兄弟の蘇民将来は牛頭天王を歓待した。念願かなって姫を娶った牛頭天王は、8人の王子を授かった。その八王子に向かって、かつて拒否された巨旦将来を滅ぼすことを伝え出撃する。巨旦将来は1000人の僧侶の呪文で結界を結び、牛頭天王を寄せ付けない。しかし一人の僧侶が呪文を読み間違えて結界が破れた瞬間に突入し、巨旦将来を滅ぼしてしまう。そして夜叉国は自分を助けた蘇民将来に与え、自分や八王子は以後 疫病神になると伝えた。ただし蘇民将来の子孫だけは守ってやるから、「蘇民将来子孫」の護符を掲げよ、と申し伝えた。牛頭天王の巨旦将来への恨みと怨念は強く、その呪詛は五節句においても調伏の儀式を行うように暦に印した。簡略化して云うなら、1月1日に供える紅白の御餅は巨旦将来の骨と肉を現す。5月5日の菖蒲は、巨旦将来の髭と髪である。正月の門松は、巨旦将来の墓標である。 上記の縁起話からは、祇園祭りとは疫病神の牛頭天王を祭る祭礼であることが分かる。五穀豊穣という祭りの目的が語られるなら、その結果ということであり、本来は疫神封じのために祀り上げる祭礼である。 であればこそ、昨夜の古和浦の祇園祭りも、見えてくることがある。ここでは船の形をした御舟(みふね)に6人の笛方と2人の太鼓方が乗り込み、その御舟を担ぎ手が担いで町内を練り歩く。町内を練った後、実際の舟に港で囃し方が乗ったまま積み乗せて、海へ出て行く。沖合いを三周ほど円周を描いて航海後、港へ戻って バンザイ!をして終了となる。古和浦の民家が皆、蘇民将来子孫の護符を掲げていることは前記した。集落の産土神社は八柱神社である、、、そして御舟に乗り込む囃し方は8人、、、8人とは、牛頭天王の王子の数と一致するが、偶然ではないだろう。その八王子が乗った御舟が沖に出航するのは、疫病神を海へ祓い流すことを意味するのだろうか。あるいは牛頭天王が巨旦将来を滅ぼすように出陣したことを意味するのだろうか。あるいは南海の龍宮への出航を意味するのだろうか。帰港後のバンザイは、巨旦将来を滅ぼした雄叫びだろうか。むろん私見による想像でしかない。しかし、漁村だから舟の形をしているだけ、という単純でない何かを感じぜずにはおられなかった祇園祭りであった。いずれにせよ、蘇民将来護符や八柱神社そして祇園祭など、牛頭天王の所縁深い土地だと思った。 何だかんだと書いたが結局は、祇園祭とは夏になって暑くなると流行る疫病封じの祀りであり、蘇民将来護符は厄病の原因である疫病神が家に入り込まないようにする呪い(まじない)の御札である。 尚、補足的に現在の八坂神社の御祭神と牛頭天王の神々の関連についても記しておく。 祇園祭として有名な京都の八坂神社の御祭神は、明治以降現在では素戔鳴尊(スサノオノミコト)、相殿に櫛稲田姫命(クシイナダヒメ)およびその夫婦の子神の五男三女の神を祀るように、外来の神々が改名された。 どこにも牛頭天王という名は、無い。 五男三女は、下記の通りである。 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ) 天之菩卑能命(アメノホヒ) 天津日子根命(アマツヒコネ) 活津日子根命(イクツヒコネ) 熊野久須毘命(クマノクスビ) 多紀理毘売命(タキリビメ) 市寸島比売命(イチキシマヒメ) 多岐都比売命(タキツヒメ) 神仏分離によって、かつては天台宗に属した祇園感神院が八坂神社と改名され、祭神も上記の如くに比定されたわけで、そこにはチベット由来あるいは祇園精舎の守護神という面影は見られない。 牛頭天王について『祇園牛頭天王縁起』を元に記したが、『ホキ内伝金烏玉兎集』では素戔鳴尊の本地である牛頭天王と、櫛稲田姫命の本地である婆梨采女の間に生まれた八人の王子は、八将神として方位を司る神々ということになっている。八将神とは、惣光天王(太歳神)、魔王天王(大将軍)、倶魔羅天王(太陰神)、得達神天王(歳刑神)、良待天王(歳破神)、待神相天王(歳穀神)、宅神相天王(黄幡神)、毒害鬼神(豹尾神)の神々である。 ※撮影にあたって、宮司様はじめ古和浦の皆様にお世話になりまして、感謝申し上げます。 《参考HP》 蘇民将来護符⇒日本!No.5 古和浦 浅間祭⇒日本!No.56 |
上左右写真;御舟と、その前での修祓ノ儀 |
上写真3枚;御舟が担がれて、町内を港まで練る。 |
上写真3枚;港から御舟が双頭状態の漁船に乗せられて出航する。 |
上写真3枚;御舟が帰港すると、花火大会である。 |
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Last Updated 2011-10-19