「アエノコト」 とタイトルに記した。一応、その呼称は俗称であることを、お断りします。なぜなら其の三にUP予定の穴水町では、アエノコトと呼ばないで、「田ノ神様」と呼んでいるからである。対外的に名前が通っている「アエノコト」を使って包括し、其の一から三にUPします。 《アエノコト; 其の一 〜 三、共通キャプション》 奥能登に伝わる民間農耕祭礼の、俗称「アエノコト」を三箇所で拝観・撮影してきた。輪島市、能登町、穴水町である。 まず「アエノコト」の流れを簡単に記す。新暦の12月5日に、春から秋にかけて農作で田を守って下さった田ノ神様を自宅に迎え入れ、饗応する。その田ノ神様は農家で年を越し、翌年の2月9日に再び饗応を受けた後に田へ還り、再び田の守り神様となる。 田ノ神様は、今回撮影してきた輪島市のK氏宅と能登町の合鹿庵では夫婦、穴水町のM氏宅では男神一人である。 アエノコトは田の神様を自宅に迎え入れて慰労、感謝する儀礼である。儀礼にも行う単位は、いろいろある。神社が中心、氏子域が中心、講が中心などである。しかしながらアエノコトは、集団では最小単位での祭礼と云える。なぜならば、祭礼を斎行するのは、家という単位だからである。 田の神様の祭礼は、近江においても撮影しているが、集落単位で行われる。一般的に、田ノ神様は農耕行事が済んだ秋には山に還り山ノ神様となり、再び春になって田に還ってくるという循環が云われたりする。 まずアエノコトを考えた場合、この田と山の循環は当てはまらない。 幾つか、アエノコトの説明に接すると、疑問に思える点が出てきた。 北陸新聞社編・発行『石川県大百科事典(1993)』には、アエノコトについて下記のような説明がなされているようである、、、、、 アエノコトの「あえ」は饗応、「こと」は祭りを意味し 民間における新嘗祭や祈年祭の原初形態をしのばせる行事、、、、、 このような説明が、一般的に流布している。しかし、この説明を読んだ時、疑問が生じた。新嘗祭とは宮中において行われるが、天皇が斎戒沐浴の上、天神地祇に神膳を奉られ、天皇は新米の神饌を盛り分けて神様と一緒にお召し上がるのである。このような儀礼の日を例に出して「民間の新嘗祭」というより、天照大御神に新穀を奉じる神嘗祭を例に出して説明する方が、ふさわしいのではないか と思っ た。なぜなら、戦前においては天皇と同じ祭礼を自宅で民間人が行うことは、憚られるのではないかと云う点、そして神様への感謝ならば神嘗祭ではないかという点である。 民俗学という分野の部外者の私は、書籍を探すのにWEBを用いる。民俗学者なら論文の入手も可能だろうが、儀礼に興味を持つ蒸気機関車ファンの私が入手する書籍は限られている。アエノコトで検索して出る書籍で、【柳田国男と民俗学の近代】(菊池暁;吉川弘文館)を購入した。この書籍は、アエノコトを通じて柳田國男が近代の民俗学に残した功罪が、どのように現在の祭礼の理解に影響を及ぼしているかを鋭く分析していく秀書であった。最初に、「俗称アエノコト」と記したが、当書を読むとアエノコトという呼称にも、柳田國男の独善的ともいう解釈が隠されているのだ。最近は柳田國男という民俗学の巨人が残した学説を見直す動きがあるようである。柳田氏の、山ノ神と田ノ神が循環する、というのは平地農民の限られた考えとする、【山の神と日本人】(佐々木高明;洋泉社)も秀書である。 上記した『石川県大百科事典』も、柳田國男氏のアエノコト解釈によっている。解釈が流布するに従い、本来の「田の神様」の祀りが均質化されたものになりつつある危惧もあるようである。トータルでの呼称がこれまで無かったゆえ、あえて ア エノコト と呼ばざるえない。 さて、アエノコトの呼び方である、、、大正12(1923)年に表された「鳳至郡誌」「珠洲郡誌」において、この祭礼は「田の神様」「田の神ノ祝」「田神の祭礼」「あえのこと」「よいの事」「あいのこと」などと奥能登の地方で呼ばれており、アエノコトと呼んでいた村は一箇所でしかなかった。そのマイナーであった呼び方が、現在の流布された呼び名となっている。そのアエノコトという呼び方を選択したのが民俗学者の柳田國男であるが、それには柳田氏の思想が反映していた。アエは饗、すなわち新嘗=新穀を嘗める、に通じる神事である、という解釈である。すなわちアエノコトとは、饗の事であって、風呂や食事は神人共食・神人合一の境地の具現だというのである。なぜでは新嘗にこだわったかというと、戦後の敗戦という時代精神が反映しているといえる。現人神であった天皇の意義が敗戦によって変化し、それでいて天皇制のアイデンティティの再構築を目指していたのにアエノコトは適応事例となる。天皇制の起源を新嘗の行事のうちに求め、「民間および宮中に伝わる農耕における儀礼」の共通性を見出すことで、天皇制を民衆的基盤の上に再創造しようとしたのである。つまり宮中の祭祀と民間における儀礼の共通性の姿が、アエノコトであるというのである。それゆえアエノコトは現在でも、民間における新嘗祭、と紹介されたりもするのである。乱暴すぎるほど要約して上記の菊池氏の著書を参考に記してみた。 しかし柳田氏の考え方は、強引であることは自明である。新嘗祭は天皇が新穀を召し上がるだけの祭礼ではないのである。現在は11月23日が新嘗祭の日であるが、昔は旧暦の11月中卯日のころに行われていて、最も太陽が衰える時期ゆえ、その時に忌籠って夕御饌を頂戴する。そして朝御饌後に一陽来復し、復活した太陽とともに天皇の霊性を新たにする祭りであるのだ。すなわち天皇の神威更新の祭りが新嘗祭なのであるから、民間人が新嘗祭を行うことに意味があるのだろうか。むしろ純粋に、奥能登の農家の人達の、田ノ神様への感謝と慰労の祭礼であると考えた方が、素直に農民の優しい心使いが伝わってくるように思えるのだが。 《参考文献》 【柳田国男と民俗学の近代 奥能登のアエノコトの二十世紀】菊池暁:吉川弘文館 【伊勢の神宮】南里空海:世界文化社 輪島市のアエノコトは、こちらにUP済み 能登町のアエノコトは、こちらにUP済み |
■石川県鳳珠郡穴水町藤巻 M氏宅(穴水町役場を通じて申し込み) 平成22年12月5日
M氏がされるアエノコトも、民家で昔からされている儀礼である。ただし、面白いことに、ここでは“アエノコト”とは呼ばないで、“田の神様”と呼んでいる。つまり12月5日が、家に田の神様迎え、2月9日が田の神様送りの日である。呼称も通例の“アエノコト”でないだけでなく、田の神様は男性の一柱であって、夫婦の神様ではないということである。このことからも、アエノコト(通称)の内容のバリエーションの豊富な片鱗が伺い知れよう。“田の神様”儀礼が始まって驚いたのだが、田の神様は何かに降臨(憑いて)されて家までいらっしゃるのではなく、何も依り代を持たない素手の御主人M氏の手招きでいらっしゃるのである。この点も、誠に興味深い儀礼であった。 |
上写真;田から家へ、田の神様を御案内。 |
上写真2枚;ストーブの居間で、田の神様にご挨拶。 |
上写真2枚;お風呂を召し上がって頂いた後、饗応である。依代なしで、素手で神様を招く。 |
上右写真;饗応後、田の神様が憑いてお休みになる種籾は、居間の棚の上に上げておく。 |
上左右写真;御神饌 |
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Last Updated 2011-03-29