■島根県大田市五十猛大浦、 平成25(2013)年1月13日撮影 『日本書紀』によると、素戔鳴尊(須佐之男命)が高天原を追放された時、最初の子である五十猛神と新羅の国に降り立ったという。しかしこの地に居ることを望まず舟で出雲国に渡ったという。 また『古事記』では、須佐之男命(素戔鳴尊)と神大市比売の間に年神が生まれている。この大年神と伊怒比売の間に韓神などが生まれている。 そのような韓神を神社の名前にした、韓神神社というお社が五十猛町にある。主祭神は、その須佐之男命である。全国でも韓神と名乗る神社は、ここだけだという。ただし須佐之男命を朝鮮神と断定は出来ないという。朝鮮半島との関係から、海人族の須佐之男命信仰に付加された神格だと考えられるという。乱暴な例えになるが、海外ブランドのバックをありがたがるのと同じように、半島渡来がハイカラと思われてありがたがられていた時代の名残なのかもしれない。事実、半島経由で日本に入って来ていた渡来文化で古代日本は成長していったのである。 五十猛町には須佐之男を主祭神とする神社の存在だけでなく、その神々が日本古代の民に恩恵を与えたエピソードが伝わっている。地元民が湿気の多い場所の穴居で不健康な貧しい生活をしているのを見た半島からの神々が、丘の上に住居を建てるアドバイスをくれたことで健康的な生活を送るようになった、というものである。それに感謝して、歳徳神を祀るためにグロを建てる行事が始まったのだという。歳徳神=半島の神々という図式が出来てしまうようなエピソードだが、前記したように歳徳神にブランド性を付加する逸話であろう。 そのグロとは1月11日〜15日の間に お仮屋を竹と莚で作って、中央に依代であるセンボンサン(神木・千本)を立てる直径20mほどの歳徳神を迎え感謝するお仮屋である。11日早朝に神迎え、15日早朝に神送りをしてトンド焼のようにグロは焼いてしまう。グロの内部には三箇所の囲炉裏があり、住人は御餅などを持ち寄って焼いて食べて談笑する。その火で焼いた御餅を食べると、一年間病気にならないという。 グロというネーミングだが、草むらや山中に建つ簡単な小屋を呼ぶからという説や、形が蛇のドグロに似ているからという説もあるという。 だが、形が似ているからではなく、形を蛇のドグロに似せたというのが本当であろう。歳徳神の本質(正体)は蛇であるという説があるが、蛇の生命力と繁栄の源の男根に似た形状そして田の守り神的存在など稲作文化の発展段階で、蛇の存在は畏怖する神格を持つようになる。 グロという蛇の中で御餅を食べることは、稲魂の塊である存在を自らの中に取り込む、すなわちパワーを取り込む行為である。グロという歳徳神が憑いた中に自らが入り、そのからパワーを得て外へ出ることは、再生を意味するのであろう。 ただ、歳徳神とはお正月にやって来るのではないかという疑問もあろう。おそらく各家庭にお正月にやってきた歳徳神が、グロに集まってきて集落の守り神となってトンド焼きとして神送りされるのであろう。 (参考; 吉野裕子著 『蛇』、講談社学術文庫 & 学研 エソテリカライブラリー『古事記がわかる本』) |
上左右;グロの全体写真。 右写真では背後に韓神神社の鳥居が見えている。港からは活発に漁船が出入りする。韓の国からの神々も、同様に船で五十猛の港に上陸したのであろうか。 |
上左;センボクサンという大黒柱には、海から採ってきたボバ(神馬藻;ホンダワラ)という海草がかかっている。神迎えの時にこのボバで海水をグロ内部に撒くのだという。祓い具と考えて良いだろう。 |
(番外写真) グロの形態は、下記写真の住居に似ている。 弥生時代の竪穴式住居である。この住居形状も蛇のドグロを模したものだろうか。 荒神谷遺跡(島根県出雲市斐川町神庭)でグロと同日に撮影。 |
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Last Updated 2013-04-21