■ 京都市左京区鞍馬二ノ瀬、 平成26(2014)年11月撮影 11月の第2の酉の日の前の日曜日に執り行われる二ノ瀬に鎮座される守谷神社・富士神社の、お火焚き祭を撮影してきた。 行く前から興味深かったことが2点あった。 まず神事なのに夕刻から夜にかけて行われる点。そして少女が御神饌を頭上運搬する点である。 一般的な神事は夜明け前からとか、あるいは午前中に執り行われる。これは夜が明けて明るくなることは再生、すなわち生命だけではく神威の再生などを、日の出を誕生に見立てているからである。見立てだから、これも広義の予祝であろう。しかし二ノ瀬の守谷神社・富士神社のお火焚き祭は、通常の神事と異なって夕日が落ちて暗くなってから始まる。お火焚き祭だから篝火が効果的な夜に行われるというだけではないだろう。ここのお火焚き祭は、巨大な火床に神職さんが護摩木を投げ入れる 伏見稲荷神社 に代表されるような様式ではない。護摩木は登場しない。出発地点の集会所(御堂広 場)の庭に篝火が焚かれ、社参行列は松明を手にする。そして神楽殿での巫女神楽の前では薪が焚かれる。ゆえにお火焚き祭というのだろう。 神域に二社をお祀りしており、東宮が守谷神社で、惟喬親王を御祭神とする。西宮は富士神社で、惟喬親王の母の紀静子を御祭神とする。惟喬親王は後の清和天皇と帝位を争って敗北し、朝廷を追われた悲運の親王である。惟喬親王の墓は、二ノ瀬から山を東の方へ越えた大原に存在する。遁世生活では山間を転々としたようで、木地師の祖とも云われている。その大原の墓所には、御霊神社も共に祀られている。そうなのだ。惟喬親王は怨霊で、御霊信仰の鎮魂儀礼が二ノ瀬のお火焚き祭ではないかと思った。惟喬親王は御霊信仰の対象となっていたのだろうと調べると、井沢元彦氏は「古今和歌集は文徳天皇とこれたか親王の怨霊を鎮魂するために編纂された歌集」と述べられている。 二ノ瀬の地は鞍馬川と山に挟まれた僅かの平地に存在し、川の氾濫で集落に被害の出ることもあるという。冬は雪も積り、台風の時季には大雨で川の氾濫もある。この厳しい自然と向き合い災害が起こるたびに、この災害は祟りが原因ではないかと思ったとしても不思議ではない。その祟りの元こそこの近辺に住まいされた惟喬親王であると考え、親王を祀り上げることで集落の安寧を願ったのであろう。少女が御神饌を運ぶのは、当然ながら親王をお慰めする意味であろう。そのような怨霊鎮魂儀礼ゆえ、白昼に行えない秘儀的要素があるのだと思う。が、二ノ瀬においては怨霊を徹底的に封じるために、惟喬親王の母親である紀静子の怨念も怨霊となって祟ると考えた。なぜなら紀静子は我が子である惟喬親王を帝位に臨むにあたって、藤原良房の娘の藤原明子との跡目争いに負けたため、藤原静子の子が帝位について清和天皇となったのだ。紀静子の怨念は深いと考えたのであろう。ゆえに守谷神社も富士神社も怨霊を鎮めて、祟りによって集落に禍が起こるのを防御するお社なのだろう。 祭りは誠に神秘的で幽玄あった。その幽玄さこそ、妖しげである。 撮影はフラッシュを全く使用しないで行った。暗闇にフラッシュは目に光が残り迷惑なだけでなく、少女が御神饌を落下する危険性もあるからだ。 (二ノ瀬の皆様に感謝申し上げます。) |
上写真;闇に浮かび上がる集会所。篝火が焚かれている。 |
上写真5枚;集会所から神社への社参。松明・太鼓・神主・宮守・巫女・稚児(御神饌)、御神饌(御神酒)持ち・松明と続く。宮守の資格のある家は六軒で、二軒づつが順番に行うという。稚児は櫃や桶に入った御神饌を頭上に乗せて運ぶ。 |
上写真2枚;神社での祭典。巫女は鉦と太鼓だけの素朴なお囃子で舞う。 |
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Last Updated 2015-04-01