三重県四日市市生桑 生桑長松神社、 平成25(2013)年12月28日、 平成26年1月1、2日 撮影 三重県四日市市では総重量75Kgにもなる大鏡餅を奉納する、近江のオコナイに共通する献鏡行事が行われている。大鏡餅は他に類を見ない独特な形態をしており、その形状の大鏡餅が正月2日の早朝に生桑長松神社に奉納される。 その行事は11人から成る宮元当番が中心となり、生桑長松神社の90軒からなる氏子らが宮宿に集まって準備から実行までおこなう。 準備は11月中旬の注連縄作りから始まり年末の御餅搗きや組み上げ、そして社参までと、延べ日数では5〜7日にも及んで行われる。 現在の生桑町は 北・中・南の区域から成っており、今回は北が順番であった。この区域の分類は、神社の経緯の歴史的説明とは異なっているが、いつの時代にか区画整理が有ったのかもしれない。 東生桑村に天照大御神を御祭神とする長松神社が鎮座していた。西生桑村には牛頭天王社が祀られていた。しかし天保9年に長松神社を現在地に遷した。明治3年、牛頭天王社は生桑神社と改称されたが、境内にはその生桑神社と長松神社が併祀されていたようだ。が、明治40年に両社は合祀されることで生桑長松神社となった経緯がある。大鏡餅神事は元々は引越してきた東生桑の長松神社で行われていた行事であったが、合祀されてからは生桑長松神社の行事として伝えられてきたのだ。 生桑の地名であるが、延暦20(801)年に記された「多度神宮寺縁起並資材帳」には六条五鍬柄里という地名で現されており、この五鍬が生桑に転じたという説がある。この地域は昭和40年代までは広々とした水田地帯だったようで、昔も川や用水路が多々あったようである。 その川は氾濫が多く、この大鏡餅神事も川の氾濫を鎮めるために東生桑の長松神社に伝えられてきたという説もあるほどである。 この大鏡餅神事には不思議な点がある。しかしながら古文書など由来書きなど残っていないため、以下については全くの私の想像であることをお断りさせて頂きたい。 まず不思議な形の大鏡餅。二基つくられるが一基につき、台に8升の大鏡餅1個、7升5合の小鏡餅1個、3升の菱2個、1升の枡形1個が組み合わされる。御餅の上には干し柿と橙が乗り、トンビと呼ばれる腕状に伸びた御餅には昆布が掛けられる。そして周囲をウラジロで荘厳される。 この形、人間を現すとも云われるが、私的には御餅だけの素の組み合わせた形状は「宝篋印搭」に違いないと考える。そう、石造供養塔の宝篋印搭である。 東生桑村で大鏡餅神事が行われていた理由に、川の氾濫を鎮めるため、とも云われていることは前記した。川が氾濫すれば、当然犠牲者が出たであろう。その犠牲者の供養のための石塔を模したのではなかろうか。では何故お餅で、ということであるが、お米などの穀霊は祖霊と一体視される思想があることは周知の処である。鏡餅は祖霊の象徴であるのだが、祖霊の来訪こそお正月という時季である。祖霊は子孫の繁栄、つまり個人のみならず村の繁栄を望み守護しようとするから祖霊は穀霊となって豊穣を導く、というのである。一気に私的結論を書けば、氾濫などで犠牲になった故人だけでなく、全ての祖先の供養を兼ねて祖霊を宝篋印搭の形状の穀霊の象徴である鏡餅でお迎えして、村と個人の安全や健康そして安寧と繁栄をお正月に祈願するのが目的であろう。 御餅では1升からなる「綿餅」というフワフワした形状の御餅も作られる。文字通り綿を連想する形だが、生桑の地名が実は五鍬から転じており、養蚕の産地ではなかったことを思えば、綿餅は養蚕を意味するとは云えないかもしれない。むしろ綿餅は繊維の綿ではなく、綿雪の方ではないかと思う。川は氾濫してもらっては困るが、さりとて御在所方面の山で雪が降らないと川が枯れてしまって水田は困る。ほどほどの雪と雨風による水の供給による順調な稲の生育祈願が、綿餅という予祝として現されるのではなかろうか。 その大鏡餅が組み合わされた後に干し柿や橙などで荘厳されるが、これは海と野の恵を現しているから、宝篋印搭とは関係の無い飾りつけであろう。 その宝篋印搭状の大鏡餅は二基作られて奉納される。形状の違いが全く無いから、雌雄という訳ではないだろう。東生桑の長松神社で行われていた時代も二基であったか古文書も無いから確認のしようが無い。ただ現状では生桑神社(牛頭天王社)と長松神社(神明社)が二社合祀されているから二基と考えた方が正しいかもしれない。 この大鏡餅神事は、元旦2日の早朝に行われる。年明け元旦の早朝ではない。元々いつ行われていたか、やはり古文書が残っていないので不明であるが、あるいは始まった頃には元旦夜明けだったかもしれない。明治8年4月、明治政府は神社を管理するのあたって『神社祭式制定』という定めを決めている。これによって天照大御神を中心とした神社は元旦早朝に歳旦祭を斎行することが定められた。 明治政府によって定められた祭典を執り行う神官が行う行事ではなく、大鏡餅神事はあくまで民間の宮座を主体とする民間信仰行事であった。ゆえに祭式制定後はお正月2日の早朝にズレ込んだのではないかと、想像している。 以上、大鏡餅の形状や行事の日にちなどは、私の個人的な想像であることを、改めてお断りしておく。 ともあれ、このような大規模な行事が行われていることに感嘆、敬服の思いで一杯である。 撮影におきまして、生桑の皆様に大変お世話になりましたこと感謝申し上げます。 写友の「祭礼探訪」様にも御礼申し上げます。 |
上左右;公民館ではなく、宮元と呼ばれる頭屋さん宅で行われるのも驚きだ。 年末に御餅搗きと形成が行われる。 |
上;元旦における綿餅つくり。 |
上2枚;元旦に大鏡餅が組み上げられる。 |
上左右;御鏡餅だけの状態と、荘厳後。 石塔状の前には、おこわ・綿餅なども並べられている。 |
上;宮宿では徹夜で御鏡餅をお守りする。そして午前3時半にもなると、続々と氏子らが集まり、酒を飲み交わし雑煮を食べ、トランプをするなどして交友を深める。 |
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上;宮宿で唐櫃に納めるために解体された御鏡餅は、再び本殿前で組み上げられる。 |
上左;祭式次第にのっとり祭典。そして二番神楽太鼓後に、若者が御鏡餅を奪うように駆け込む。 |
上;祭典後に拝殿内で御鏡餅は切り分けられて氏子に分配される。氏子を見守ってくれる祖霊、穀霊のパワーを得る儀式であり、分配された御鏡餅を頂くのも重要なことである。 |
上写真(追加); 大鏡餅の別アングル。突起が四本出ており、人間には見えないが、、、。 |
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Last Updated 2014-01-14