撮影場所;滋賀県近江八幡市 撮影機材;Nikon D300+VR18−200mm 現地情報;祭礼日は毎年変わり、前年末頃に集落内で決定される。要事前確認。 滋賀県近江八幡市における左義長は、三月に日牟禮八幡宮前で行われる「左義長まつり」 行事が有名になっている。が、そちらは元々は隣接する安土町から信長没後に近江八幡に移り住んできて、八幡山城の城下町を開いた商人らによって始められた祭と云われる。すなわち元来の農村地域の住人ではなく、引っ越してきて現在は“旧八幡町”と云われる地域に住まう人々によって行われ始めた左義長である。しかし一月の小正月に行われる左義長は、もともとの農村地域の祭礼である。農村地域には旧来の“十三郷”という“郷としての祭礼”を行う地域もある。この“郷としての祭礼”は日牟禮八幡宮での祭りであり、一般に松明が出る「八幡まつり」と云われる。 今回撮影してきた小正月の左義長は、もとは農村地域での祭礼であるが、独自に各集落が行うもので、“郷”や“旧八幡町”という祭り地域の区分には関係が無い。ゆえに行われる日は集落によって年によって決められる。 このような昔からの近江八幡市の農村部による左義長には、形態的に3パターンがあるようだ。まづ、有名な「左義長まつり」にみられる輿型で担いで町内を巡行可能なタイプ。二つ目に、松明祭の大松明のようなピラミッド型に藁を組み上げて、その上に十二月と呼ばれる紙垂風の飾りを付ける据え置きタイプ。そして最後は、言葉は悪いが、無造作に奉火する御札などを積んだだけの左義長である。 この小正月の左義長、数年前までは1月14日か15日に行われていたが、その後の祝日の変更で、今では前年末に各集落内の相談で翌年の左義長の日を決めているようである。ともあれ1月10日頃から15日頃にかけて、近江八幡市全域では総数80箇所くらいで左義長が行われるのだから、これは驚くべき祭礼行事である。尚、近江八幡市内でも「左義長」と呼ばずに、「ドンド(焼き)」と呼ぶ場所も有るが、どうして呼称が違うか分からない。 祭礼日の情報は近江八幡市の方々からご助言を頂きまして、感謝申し上げます。 (※)左義長の行われる場所の地図は、書籍【近江八幡の火祭り行事】(近江八幡市教育委員会刊)に掲載されている。 |
■南津田町 平成21(2009)年1月11日撮影3月に旧八幡町で行われる「左義長まつり」での左義長に良く似た、輿(こし)タイプである。装飾で隠れて判り難いが、棒が通してある部分が藁で編んだ本体部分である。その本体部分にくっつけたように円盤の飾りが付いていて、中には干支の丑が付いている。そこを“出シ”と呼ぶ。その上は藁を括った部分で、“喉”と呼ぶ。そしてその上が“耳”と呼ぶ御幣などを刺す部分である。さらに目立つのは、“十二月(じゅうにんがつ)”といって、5mほどの青竹に赤紙や短冊をつけた部分である。この左義長は、町内をお神輿のように巡行する。午後5時半、公民館前に置かれていた左義長は、奉火される八王子神社前の馬場まで巡行、午後6時に奉火された。 据え置きタイプの左義長が、お正月に迎えていた歳徳神や山ノ神送りという純然たる意義に対して、このようなお神輿タイプで町内巡行するタイプは、神送りだけでなく町内の疫神を憑かせて祓い流す疫神送りの意義も見出せよう。ただ、それは後付けの理由であって、もとは左義長がフェスティバル化(風流化)した、すなわち娯楽化した祭りの形態変化の結果だっただけかもしれないが。しかし据え置きタイプの左義長が朝に日の出の頃に奉火されるのは再生を意味するだろうが、巡行型は夜間に奉火される。村内の疫神・悪霊は闇に葬ろうという意図もあるかもしれないと思えば、面白い。 |
■加茂寺内町 平成21(2009)年1月12日撮影ここの左義長は、タイプ別分類の据え置き型に相当する。この左義長が、午前8時に奉火されるという情報を現地の方から頂いたので、午前4時52分に自宅を出発した。雪の名神高速道はスピードが出せず、現地には午前6時50分頃に着いた。しかし何処に左義長があるか判らず、町内をウロウロと移動しまくった。やがて地元の人に左義長の場所を教えられて待機していたら、奉火予定の30分くらい前に報鼓の前触れがあって住民の方々が集まり始め、準備が行われた。この加茂寺内は11戸でこの左義長を行っているとのことであった。左義長には御幣も立てられ、各自宅から持ち寄った御札なども納められると、午前8時に奉火が始まった。 |
■江頭町 平成21(2009)年1月17日撮影午前中の仕事後に、滋賀県近江八幡市江頭町の左義長を撮影してきた。当地を出発したのが13時40分。名神高速の竜王ICで出て、現地に着いたのが15時20分であった。左義長は夕刻から町内を巡行して、18時頃から奉火と思っていたから、下見をしてから「あきんどの里」にでも買い物に行こうかと思っていた。しかし現地で伺ったら、最近は子供が少ないから町内巡行も少なく、16時過ぎたら奉火に移動する左義長が有るという。残念ながら、買い物は次回にして、町内に置いてある左義長を順に撮影することにした。今日は江頭町で左義長が七基、そして隣接する十王町で二基の左義長が出るはずだ。十王町へは行けなかったが、江頭町では五基の左義長を確認した。江頭町といっても旧町が作製単位となっているため、かように複数の左義長で出るのだ。俗称“子供左義長”といい、製作には大人も関わるが、材料の収集や寄付集め、そして巡行はかつては子供だけで行われていた。しかし伺ったところによると、或旧町では子供が二人しか居ないため、かつてのように子供だけで左義長を担ぐことは不可能になっているとのこと。そこだけでなく、どこも子供と大人の混成祭員によって行われていた。 御輿型の左義長、現在の近江八幡市には複数の箇所で見られるが、その最も西域が江頭町・十王町である。 奉火は江頭町の結界まで左義長を運ぶというより、空いた田で奉火するという感覚である。町内のあちこちで煙が立ち上がる様は、不思議な眺めであった。 |
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Last Updated 2010-01-01