■滋賀県蒲生郡日野町中山、 平成23(2011)年9月撮影
東西2つの集落が、野神の塚で里芋の長さを、祭礼の最後に競う託宣行事を行うため、芋くらべ祭り という俗称がある。 しかし本質は野神祭りである。芋くらべを行うことがユニークに思われがちであるが、事実このような事例は他に類を見ないが、しかし重要なことは野神を祀る祭儀が900年も前の文書に記載されて残っていることであろう。東大寺の別院であった金剛定寺所蔵の文書に、ここの芋競べの記載があるという。文書は嘉応元年とあるから、西暦1169年の平安時代末期の記述である。しかしながら、なぜ里芋の長さを競べるのかについては定説がなく、日本人の常食だった芋の名残りであるとか、「いも」つまり鉄器を司る神の代用であるなどの諸説があるようである。 当日は、中山の東西で栽培されたものの中でもっとも大きい里芋を選んで、孟宗竹(もうそうだけ)に結わえておきます。そして、熊野神社で盃の儀式を終えた後、東西別々の道を通って約700mほど離れた野神山へ登る。前日までに祭場は山子と呼ばれる男児たちによって竹で囲いを作ったり、小石をぎっしり敷き詰められて準備されており、行列が祭場に着くと東西7人ずつの山若と呼ぶ青年たちが祭を始める。 神を拝する→芋を供進→神を拝する→神の膳を奉ずる→神を拝する→神の三々九度の盃→神を拝する→吾々の膳→神を拝する→神ノ膳撤饌→神を拝す→吾々の膳を下げる→吾々の三々九度の盃→芋打ちの酒肴→釣り石を切る→神の角力をとる→芋を出す→芋打ち このような儀礼が約2時間続き、1番最後に、芋の長さ競べが行われて勝負を決定します。西谷の芋が長いと豊作、東谷の芋が長いと不作になるという。 ここの野神祭り、歴史的な記載が判明しているだけでなく、実は祭礼を司る東西の組が陰陽の対をなしており、それぞれが祭具や装束に至るまで厳密に区別されている点も厳格さを残しており重要点である。また、祭礼は宮座の形式で運営されており、年齢階梯制を残している点も重視できる点である。近江の各地に伝承されている野神祭りは多々あるが、あるいは元々はここの中山のような厳密さが有ったのかもしれない。そう想像すると、ここの野神祭りが古式を残している極めて貴重な祭礼に思えてくるのである。 ※中山の皆様、どうもありがとうございました。
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上左右写真;御神饌。鯉の形は「をり」と呼ばれ、もち米を型木に嵌め込んで成形して作る。 |
上写真3枚;熊野神社での盃事のあと、孟宗竹(もうそうだけ)に結わえた芋を担いで野神山の祭場へ向かう。 |
上写真3枚;三々九度、吾々の膳の儀式。 |
上写真左;山子前の膳。 上写真右;神の角力(東組)。 |
上写真2枚;芋を打つ(芋競べ)。 |
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Last Updated 2012-04-23