撮影場所&日;滋賀県長浜市川道、平成20(2008)年2月24日
撮影機材;Nikon D300+VR18-200mm、D80+SIGMA10-20mm
現地情報;川道神社から御鏡餅の撤下は、15時頃より順次。
☆「川道のオコナイ(其の一)」からの続き
前夜の午後9時、川道神社拝殿に献鏡された七村(庄司)の御鏡餅は一晩安座された後、翌日の午後に当屋に下げられる。
静かな拝殿に安座する御鏡餅は、厳かであり美しい。
このような狭い川道の集落で、七村(庄司)という細分化された村では、かつては神事に参加できる資格性の「株座」性であったようだ。資格とは家系の世襲制だったかもしれないが、その有資格者を諸人(もろと)と呼び、諸人のように神事頭人を務める人の集合体が「宮座」である。ただ、この宮座は明治維新の神仏分離や戦後の価値観の変化などで崩壊して、村人が誰でも参加できる「村座」へと変化していった。そのような制度の変化はあっても、これだけ巨大な御鏡餅が七つも並ぶのは壮観である。なぜこのような巨大な御鏡餅が作り得たのか、驚き万感である。近江という広い地域まで視野を広げると、オコナイといえども御鏡餅を献じない神事があることがわかる。なれど狭い湖北という地区でみると、やはり御鏡餅は主たるオコナイの象徴である。湖北の場所によっては、この御鏡餅を搗いてから型にはめる「オカワ」という枠をも神聖視する村がある。オカワこそ神霊を迎える依代だというのである。たしかにオカワだけを供える神事もあるやに聞くから、その神聖性は格別な村もあるのであろう。ただ、このオカワを伴ったオコナイには、政治的な背景の考察が見られる。青山氏(※)によると、湖北一帯に勢力のあった浅井氏と、その被官として組み込まれた国人領主が積極的に勧農を図るために、新年の年中行事として主催したオコナイにおいて村の有力農民を当人に査定する形で主催されたものだという。つまり湖北の平野部から東の山間への狭い田の農地面積は少なく、山間の焼畑や林業など稲作によらない生業形態も根強く存在した。稲作と畑作という二形態の生業の葛藤の中で、積極的に稲作文化を取り込む勧農政策が背景にあったとも青山氏は指摘されている。その稲作文化の象徴が御鏡餅であり、オカワだというのである。このように湖北の地形や歴史的な生産関係を考慮した考察は面白いし、その考えを応用すると川道のオコナイについてもみえてくる。川道のオコナイの場合、御鏡餅を付形するオカワより御鏡餅そのものが重視されている。琵琶湖湖畔に近い平野部の川道においては、山間部オコナイの地のような水不足に陥ることなく琵琶湖の水を利用するなどして、昔から豊かな稲作文化が展開していたのかもしれない。であるからこそ、川道の集落において七つも巨大な御鏡餅を献じるという豪勢さが保てたのであろう。
《参考文献》
(※)青山淳二『湖北のオコナイとオカワ』〜【日本民俗学】第187号(平成3年8月)日本民俗学会
橋本鉄男『近江の藁綱のオコナイ』〜【近畿民俗】第111号(昭和62年5月)近畿民俗学会
中澤晃【近江の宮座とオコナイ】岩田書院
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